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“文化的なAI”とものづくり(後編)

デザインエンジニア 緒方壽人 × 基礎情報学/表象文化論研究者 原島大輔
文化特集号トークイベントレポート

ここ数カ月、世間を賑わせるChatGPTなどに代表される生成系AI。ものづくりを根幹から揺るがしかねないテクノロジーの進化は、果たしてわたしたちの文化にいかなる変化をもたらすのでしょうか。3月31日に発売された『広告』文化特集号の記事「110 文化と文明のあいだ」を寄稿いただいたTakramのデザインエンジニア緒方壽人さんと、基礎情報学や表象文化論の視点から人の営みやテクノロジーについて研究されている原島大輔さんをゲストにお迎えし、編集長の小野直紀とともに、生成系AIと文化が今後どのようにかかわっていくのかを語り合いました。5月12日に、松本市の本屋兼カフェ「栞日」で開催した『広告』文化特集号のトークイベントの模様を前後編の2回にわたってお届けいたします。(後編)

前編はこちら

記憶の技術の歴史

緒方:おもしろいですね。ユク・ホイは、ベルナール・スティグレールという哲学者のもとで学んでいますが、スティグレールは技術哲学とかメディア哲学が専門ですよね。
 
テクノロジーといったときに『2001年宇宙の旅』の冒頭のシーンではないですけど、テクノロジーとか道具というものの最初のイメージとして骨をつかむみたいなイメージが強くあるので、手の延長とか物理的な作用を働かせるものがテクノロジーであるっていうところにずっと引っ張られています。
 
ただ、スティグレールたちは、そうではなく、“記憶の技術の歴史”なんだという切り口をされていますよね。確かにもうひとつの非常に大きなテクノロジーの流れだと思いました。文字とか本になったり、メディアが生まれたり、今度はAIがムネモテクニックという記憶技術として、どういう新しい時代をつくっていくのかという切り口もすごくおもしろいなと思ったんですけど、その観点で言うとどうでしょうか?
 
原島:それはまさに文化とも深く繋がった大事なポイントだと思います。人間には歴史性がありますね。だけど、人が歴史性について考えられるのは、そもそも技術によって歴史的に継承されるものがあるからではないか。だから歴史よりもむしろ技術のほうが根底にあるのではないか。大雑把に言うなら、スティグレールが技術と記憶について考えた背景には、そういう発想があった。
 
たとえばスティグレールは、人が時間をどう経験しているかをめぐる、現象学的な考察を深めることで、技術と時間について探究しました。時間の現象学はもともと、ドイツの哲学者エトムント・フッサールが取り組んだものでした。たとえば、「直近の過去」を捉えたり、「直近の未来」を捉えたりすることは、人は生身のままでもできる。それに加えて、たとえばこの会場での話を、みなさんそれぞれになにかしら記憶に留めておかれることもあるかと思います。そうすると「直近の過去」と「直近の未来」だけでなく、明日になって「昨日、栞日でのトークイベントであんな話あったな」と過去を思い出すこともあります。また、頭のなかで「来週、何しようかな」とか、未来のことを考えることもあるでしょう。このように、直近の過去未来と、想起したり予想したりする過去未来という、いわばふたつの時間の層があるということを、フッサールは言いました。
 
それに加えて、スティグレールは、本やレコード、ビデオとかがあることで、人が頭のなかで憶えているだけではなく、何百年、何千年というひとりの人生の時間スケールを遥かに超えて、生物としての進化の歴史、生物学では「系統発生」と言いますけど、そういう時間スケールで過去を捕まえておくことができるようになると言っています。これがテクノロジーは記憶だという背景なんですね。
 
さらに言うと、ユク・ホイは、テクノロジーによって人にどういう風な未来が現れるかということをテクノロジーから先取りして操作されるのが、現代のテクノロジーのあり方だと言っています。
 
つまり、テクノロジーによって人間の時間性、過去とか未来の経験の仕方が規定されているというのが、スティグレールやホイの考え方です。われわれが何かを継承してきたというよりも、技術がわれわれに継承させている、つまり、人間が世界をどういう風に経験するかということを技術が規定しているのではないか、と。

これはおもしろい観点だと思います。だけど、はたして技術は根本的に経験を規定しているのでしょうか。つまり、人がどういう風に過去や未来を経験しているのか、時間をどういう風に経験しているかというのは、技術が規定しているというよりは、むしろ生きることによってつくられていて、結果としていろいろな技術があって、それによって人々は歴史や文化、あるいは風土みたいなものを継承しているのではないか。技術というよりは、生命がより根底として時間的な経験をつくっているという見方もできるのではないかと考えたりもします。

目的論的な意味の連関

緒方:AIに話を戻すと、AIそのものがどういう風に記憶を扱っていくのかみたいな話とか、逆に人間の記憶とか文化の継承みたいな話にどういう影響を与えていくかみたいなところも変わってくる気がするのですけど、そのあたりはいまのAIの状況を見てどう思われますか。
 
原島:ひとつは、いま言ったように機械と生物とでは時間性がちょっと違うというところなんです。これはもともと情報学者の西垣通さんがよくおっしゃっていることなんですけども、機械は新しいものをつくれるけれど、学習は過去のデータでするわけです。たとえば、あらかじめ膨大なデータで事前学習をしておいた大規模言語モデルを用いる、最近の対話型人工知能であれば、そこからいろいろな推論で文章を書くとか、あるいはイラストを描いたりする。とにかくものすごい大量のデータを学習できるわけです。人だったら何回生きても読みきれないだけの情報がすべて読める。
 
それに対して、人間はもっとリアルタイムに表現したりつくったりしていると思うんですよ。別に勉強しなくても、つくれるわけですよね。人工知能は、人間では使いきれないぐらいのデータを使えるというところは非常に大きな発展があったわけですから、それをどうやってうまく使うかは大事なことである一方で、データから学習して、何かをつくるという発想とはちょっと違う、このリアルタイム性に、まだまだ踏み込む余地はありそうだなと思っています。
 
小野:生成系AIなどがものをつくるときと、人間がものをつくるときのそれぞれの優位性として、まず生成系AIは過去の膨大なデータから学習して、そこから推測してつくることにあると思います。一方で人間のように、リアルタイムで即興的に、世の中もしくは自分の記憶とインタラクションを曖昧に行ないながらつくっていくことは、いまのところAIにはできてない。
 
AIと人間それぞれが目的的にものを生み出していったときに、AIが人間とは別のあり方で自律的なものを生み出していくということがあるのか、ないのかが、すごい気になっています。
 
先ほど冒頭で人がものをつくるというのは、つくるという具体的なアウトプットをする行為の手前に、「自分とは何か」を考えることであるとおっしゃっていましたが、いずれ機械もそういうことを考え出すのか。 それとも、人間とはまったく違う目的的なあり方がありうるのか、どう思われますか。
 
緒方:今日はみなさんと実際に会って話していますが、たとえばオンラインだったら、チャットに参加しているのが実はChatGPTだったとしてもわからないかもしれないですね。別にそれでいいかもしれないと個人的には思っているし、人間のように感じるAIが出てくるのかもしれないけど、それはそれで、もうひとつの生物がいる的な扱いをするかもしれないなと素朴に思っています。

いろんなところでこの話をしていますが、自由エネルギー原理とか予測コーディング理論と言われているものがあって、脳の働きとしてそもそも人間はものを見ているときに視覚からのインプットを毎回処理してるわけではなくて、何かが視界に入ってくる瞬間に脳の側で先に予測して出力しているんだと。出力したものと実際に外から入ってくるものをつねに答え合わせしながら、違ったときだけ脳にインプットしている。そこの齟齬がなければ、基本的には外からの情報は、実はインプットされていないというような理論があります。
 
日々生きているなかで、つねに頭のなかで現実との答え合わせをしているのが人間とか生物の脳だとすると、最初に予測をするというのは、“生きてみる”ということに近いのかなと思いました。
 
いまのAIはまず先に学習したモデルがあります。それを使って「結構すごいことができる」という状況です。大規模言語モデルやChatGPTみたいなものが、つねにリアルタイムに予測をしながら何かを表現したり、違ったと言ってフィードバックをかけて修正したり、リアルタイムに学習しているわけではないんですよね。だから、そこには技術的に大きな違いがあると思います。
 
原島:いまの目的の話は、とても大事だと思います。たとえば、ChatGPTは上手に文章を書けますよね。だけど、意味をわかって書いてはいない。すでにある文字の次にどういう文字が来る確率が高いかという確率的なモデルを学習して、つくり出しているだけなんです。
 
もちろん、いわゆる意味論みたいな人工知能の研究も一生懸命やっていて、辞書に載っている言葉を人工知能に聞いたら、意味を答えてくれます。だけど、われわれは辞書的な意味とはちょっと違った、価値に近いような意味を持っていますよね。そういう価値的な意味を、実はまだいまのAIではわかってない。ひとつには、人がものの意味とか価値を捉えたり、見出したりするのは、その時々の自分の置かれている状況の意味や目的とすごくかかわっているからなんだと思うんです。
 
たとえば、どこか座れるところを探しているとすれば、目に映る座れそうなものはみんな椅子に見えますね。それがテーブルでも、座れるのであれば座るわけです。つまり、ものの意味は客観的にあるわけではなく、その場その場の目的論的な意味連関のなかで生まれているわけです。座る意識がなく、ただ道を歩いているときに道端にベンチがあったとしても座ろうとも思わないし、そもそも目にも入らないわけですね。
 
一方で、機械の場合はその目的が、与えられた目的なんですよね。もちろん人も生きているなかで、与えられた目的に則って動いているときもあります。すごい切羽詰まった仕事モードのときには、それに関係あるものしか目に入らなかったりしますよね。これが意味ということです。
 
その目的が与えられた目的としてだけあるのであれば、非常に機械的な目的ですよね。だけど、もっと自由な目的というものを、われわれは深いところで持っていて、そういう目的のなかで生きている瞬間というものがあるのではないかと考えたときに、それがわれわれにとっての物事の意味のいちばん背景をなすような根底になっているのではないでしょうか。
 
それがあるから人はものの意味をかけがえのないものとしてわかるわけです。それが確率論的に文字列を繋げたりするときにできあがる意味とは違うように感じるとしたら、その根本的な意味が機械的に与えられたものではなく、この自由なイメージの発露なのかどうかにかかわってくるのかなと思います。
 
緒方:めちゃくちゃ大事ですよね。現代は与えられた目的というものに対して行動をしている部分がすごく大きくなってしまっているのではないかという気はしています。それが前提になってしまうと、その目的にとっては「僕はいらなくなる」とか「こっちのほうがいい」みたいな話になってしまうので、そこからどうやって自由になれるのかが重要。生きてみるとかつくってみるというように自分で目的を見出すみたいなことがあれば、別にAIが脅威とか、人間対AIみたいな話にならないのではないかという気がしますけどね。

無目的の目的という創造性の境地

小野:「あなたはこの仕事をしてください」と外から与えられる目的に対して、歌いたいとか、散歩に行こうみたいな、他人から見れば無目的に思えるものこそが、実は本当の目的なのではないかと、いま聞いていて思いました。ある種、無目的であるという目的性みたいなものが、人間とか生物にはある。一方で、機械は「これをやってください」「この絵を描いてください」「このことについて教えてください」と限りなく目的を与えられます。

人が自己目的的に何らかの行為を行なうことは、他人から見ると無目的に何かをしているように見える。こういう無目的な目的は機械やAIがいまのところ持っていないものなのかなと思いました。
 
緒方:さっき予測コーディングの話をしましたが、たとえば本物のリンゴだと思って手に取ったものがつくりものだったら、これはつくりものだと脳のモデルを修正します。そうやって学習していくものと一般的に言われています。ただ、思っていたのと違うという度に書き換えていたらすごく大変なので、アクティブインファレンス(能動的推論)と言って、いきなり「違った!」ではなく、「本当に?」みたいに二度見したり、角度を変えて見たり、近づいて見たりと、アクティブに本当かどうかを確かめて違ったら、初めてそこで脳のモデルを書き換える。そういうすり合わせをしています。
 
そう考えると、つくることはこちらを変えずに脳と現実に齟齬があったときに脳の側のモデルを変えるのではなくて、「いや、こっちのほうがよくない?」とか、「こっちの世界のほうがいいんじゃないか」みたいなことを、逆に現実のほうに働きかけて何かをつくると齟齬がなくなるという方向のすり合わせをすることが、実は「つくるとクリエイティビティ」なのではないかと思ったんです。
 
よく、どうすればクリエイティブになれますかみたいな質問をされるんですけど、僕の場合は「自分はこう思うんだけど、現実はそうなっていない」みたいなことが、つくるモチベーションとか出発点になっています。それがない状態でクリエイティブになろうとしても、無理があるのではないかと思うんです。齟齬がないとしたら、「別にそのままでいいんじゃないですか」みたいな感じもしてしまう。
 
つまり、何かつくるということは、根本的には自ら生まれてくるものでしかないのではないかという気がします。

原島:それはすごくおもしろいですよね。無目的の目的というのは、本当にそのとおりだと思います。無目的の目的が極まると無為ということになるかもしれないですね。
 
だけど、それはただ何もしてないわけじゃないんですよね。それが究極的に創造的な状況というか。クリエイティブになろうとするのは、できないことやろうとしていることになるわけです。
 
小野:緒方さんが言われたように、自分にあるものと世界にあるものとすり合わせずに何かを出すことは、はたから見ていると「それ、何のためにやっているの?」となるから、めちゃくちゃ無目的に見えてしまう。
 
けれども、それをやることに意味や価値、あるいは快楽を感じることによって生まれるものがあって、それがまだ世の中にはないものなって、世界を変える何かになるかもしれない。だけど、一見無目的なことをやっているな、この人って見える。
 
でも、その行為自体がすごい目的的で、外部目的ではなく内部目的によってものをつくるというのが、創造性と結びつくというのはとても共感します。
 
緒方:最初の話に戻るのですけど、自分でつくってみて、そのすり合わせができていないのではないかと思いますよね。
 
ただ誰かに見せるとか、受け取ってもらって、いいねと言われたりすることが、これでよかったんだという風に自分を変えずに済むということがそこで起きて、それが続いていくとか、繋がっていくということも必要。もちろんひとりでつくっている人もいますけど、基本的には共感してくれる人とか、他者がいないと成立しないのかなっていう気はします。
 
原島:それはすごく大切だと思います。この考え方ってわれわれをもっと素直に肯定してくれるというか。過大に肯定するわけではなくてね。
 
つまり無目的の目的でクリエイティブになるというと、すごく極まった創造性の境地という側面もありそうに見えるんですけど、われわれは特別にものをつくっていなくても、本来すごく創造的なんだということに気づかせてくれるわけですよね。
 
それがいろいろな人たちのなかで独りよがりにやるのではなくて、みんなとのなかでそれで生きているということが、実はものをつくらなければ、業績出さなければ、と駆り立てられるものから解放してくれる視点になる。
 
だから、究極的な創造性の境地を目指すことのひとつのヒントになるのではないかと思います。また同時に、われわれがもっと普段忙しなくしていなくても大丈夫ということに気づかせてくれるところは、非常に大切なことだと思います。
 
小野:生成系AIを道具として使うということもあると思うんですけど、無目的な目的のために使うとなるとコンヴィヴィアルな感じもしますね。
 
緒方:そうですね。ChatGPTの回答って少しずつ出てきますよね。あれは、別にもったいぶったり、狙っているわけでもなく、技術的に仕方なくちょっとずつ出ているんですけど、あれがすごくいいなと思います。
 
それはまさにAIとの対話で、人間側も次に何て言うのかなと予測しながら、それが期待どおりに続いたり、思わぬことを言ってきたりというのがおもしろいなと思います。瞬時に大量のアウトプットが出てきたら対話が成立しない感じがあるから、結果としてすごくいいインターフェースになっていますよね。
 
原島:確かにおもしろいですよね。いままでのウェブ検索だと検索ワード入れたら、パッと何百万もの検索結果と、何秒かかったかという数字が出ますけども、それとは違う仕方で出てくるわけですよね。
 
緒方:勝手に人間側が、すごい考えているなとか、何を考えているんだろうみたいな、何か難しい質問した気になるというおもしろさがあります。

技術の多様性

小野:生成系AIというよりはテクノロジーの話になるかもしれませんが、「多様性と特殊性」についても聞かせてください。
 
110 文化と文明のあいだ」のなかで「文明というのは普遍的で、文化というのは特殊性がある」など文化と文明の違いについても書かれているのですが、とはいえ文化と文明というものを単純にわけるだけでいいのか、両立したり、もしくはそれ以外のあり方があるんじゃないかみたいなことは考えられていたと思うんです。
 
緒方:そうですね。まさにさっきの技術自体が多様性を持つということが本当に可能なのかみたいなところは、原島さんにぜひ聞いてみたいなと思います。
 
原島:ひとつには、技術というものの捉え方が根本的に違うのではないかということです。ホイがそれについて事例を出して論証するために、彼自身に親しみのある「道」と「器」の合一という中国的な技術の考え方を一例として紹介していました。
 
平たく言うと、「道」は宇宙の道徳的秩序で、「器」は人がつくったものですね。それが合一することが“技術の究極の境地”であるという技術観です。これはヨーロッパ的な技術観とはそもそも技術の捉え方が違うと言います。
 
では、ヨーロッパ的な技術観とはどういうものか。そのヒントになるのが、マルティン・ハイデガーというドイツの哲学者の技術論です。彼は、近代技術としてのテクノロジーの本質を、非常に批判的に捉えるんですね。ひとことで言うと、人間にとっての世界がどういう風に見えるかを技術は規定していて、とくにテクノロジーによって人間は、役に立つか立たないかの視点ですべてを見るようになってしまいます。だから自然も資源として見えるし、人も人的資源として見えると。
 
では、近代技術としてのテクノロジー以前に、本来、技術とはどういうものかを考えるときに、ハイデガーは古代ギリシャの技術観に立ち返ります。古代ギリシャの場合は、「テクネー(技術知)」と言いますけれども、存在の真理を明らかにするという技術観ですね。この技術観にむしろ着目したほうがいいだろうとハイデガーは主張します。
 
それに対してホイは、古代ギリシャはそうかもしれないが、アジアとか、アマゾンとか、ほかの文明は古代ギリシャと同じ文明を共有してないから、存在の真理を明らかにするみたいな視点で技術を捉えていないと指摘するわけです。そうして、その一例として、たとえば中国では道と器の合一というものが技術なんだと言っています。
 
彼は日本にも非常に深い関心を寄せていて、日本の例で言うと「存在」つまり「有」よりも「無」のほうが大事なのではないかと指摘します。そういう「無」の思想のなかでは、古代ギリシャ的な「存在」つまり「有」の真理を明らかにする技術観とは違う技術観が、本来ありえていたのではないかと問いかけています。
 
それはまず観念の次元で技術が違う。思想ですね。だけど、思想だけで技術のことを考えるのは、実際には難しいですよね。要するに技術でわれわれはどういう営みしているのかということも大事で、思想だけではなく、われわれが遺してきた文化の遺産とかをも見つめながら掘り出していかなければならない。
 
そして、大事なのは反動的になってはダメということなんですよね。テクノロジーとは違う技術観といっても、われわれはもうそのテクノロジーの時代に生きています。だから、それに対して対抗的になるのではなく、これからわれわれがコンヴィヴィアルにやっていくためには、テクノロジーをどういう新たな智慧の観点で変えていくか、技術をより豊かにするにはどうしたらいいかと考えていくことが大事ですよね。

緒方:めちゃくちゃおもしろいですよね。文化特集号の巻頭記事「108 文化とculture」で吉見俊哉先生が、文化がいろいろな捉え方をされてきた経緯として、「カウンター性」と「プロセス性」が文化にはあると言っていて、なるほどと思ったんですね。
 
人間の歴史上、メインになるものが生まれると、それになにかしらカウンターになることを考えはじめると。そのプロセス自体が続いていって、またそれがメインになったら、またそれに対するカウンターが出てきてということが、ずっと繰り返されてきている。それが文化。そうやって、文化がずっと続いてきているというのは希望だなと感じました。
 
技術というものがモノテクノロジー的になっているのですが、そこに対して文化的にアプローチをして、何か違うアプローチがあるのではないかという動きが出てきていること自体が、すごく人間的の営みで、今後も続いていくのだろうと希望を感じました。
 
小野:テクノロジーの受け取り方が違うということと、文化と文明を分けるのが違うのではないかという緒方さんの違和感が共通していると思いました。
 
そもそも西洋的なテクノロジー観では、人間から独立した客体的なものであり他律的なものであることが前提になって語られがちです。でも、テクノロジーと文化が不可分なものであるという前提でテクノロジーを捉えてみたら、必然的に多様であり不偏であるということが成立している気がします。

緒方:そうですね。観念的な部分ではそういう多様なテクノロジー観はありえそうだなと話を聞きながら思いました。とはいえ、インターネットや情報技術がこれだけ世界を覆いつくしている状況のなかでどうなっていくのだろうとは思います。
 
小野:確かにそうですね。僕はふたつの大学に通ったのですが、ひとつめの大学ではほとんど勉強していなくて、成績はほとんどが「可」で、「不可」も多くて、しかも中退しているんですよね。けど、その後、編入した大学では、楽しくて仕方なくて勉強をしまくったんですよね。でも、興味ないことに対しては、相変わらずいかにチートするかということをやっていたので、学生時代にChatGPTがあれば、それを使って楽をしようとしていただろうなと思います。
 
人間のあり方は、楽なほうに流れるものという気がします。でも、自分がやりたいことを見つけたときは、ズルをしたり楽をすることがもったいないと思う。心の教育も含めて大学に入るまでにそういうことに気づけたうえで、ChatGPTが使われるかだと思うんですね。文化とテクノロジーが不可分という話がありましたが、心とテクノロジーが不可分ということとも言い換えられると思いました。
 
緒方:そうですね。本当に何かつくりたいなって思うような状況が生まれるといいなと思いました。
 
原島:テクノロジーも、文化も、これからますます変わってくると思いますが、そのなかでみなさんもぜひいっしょに頑張りましょう。本日は緒方さんとじっくりお話しする機会をいただき、本当にありがとうございました。
 
小野:ということで、今日のトークイベントを終わらせていただければと思います。緒方さん、原島さん、ありがとうございました。


文:矢野 太章

緒方 壽人 (おがた ひさと)
Takramデザインエンジニア。デザイン、エンジニアリング、アート、サイエンスまで領域横断的な活動を行なう。主なプロジェクトは、月面探査ローバーの意匠コンセプト立案とスタイリング、NHK Eテレ「ミミクリーズ」アートディレクション、「アスリート展」展覧会ディレクターなど。近著に『コンヴィヴィアル・テクノロジー──人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』(ビー・エヌ・エヌ)。https://convivial.tech/

原島 大輔 (はらしま だいすけ)
早稲田大学次世代ロボット研究機構研究助手。基礎情報学/表象文化論。著書に、『クリティカル・ワード メディア論』(共著、フィルムアート社)、『AI時代の「自律性」:未来の礎となる概念を再構築する』(共著、勁草書房)、『基礎情報学のフロンティア:人工知能は自分の世界を生きられるか?』(共著、東京大学出版会)、など。訳書に、ユク・ホイ『再帰性と偶然性』(青土社)、ティム・インゴルド『生きていること:動く、知る、記述する』(共訳、左右社)。


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今回のトークイベントにご登壇いただいた緒方壽人さんには、雑誌『広告』文化特集号でもご協力いただきました。現在、緒方さんに寄稿いただいた記事を全文公開しています。

110 文化と文明のあいだ
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