110 文化と文明のあいだ
「馬に乗った宇宙飛行士」
そう指示するだけで、宇宙服を着た宇宙飛行士が馬に跨がるリアルな写真や、まるで人間の画家やイラストレーターが描いたような無限のバリエーションの絵が生み出される。そんな画像生成AIが最近話題を集めている。
プロンプトと呼ばれるAIへの指示文を絵筆として自在に操り、思いどおりのイメージをつくり出す人もいれば、これは芸術ではないと喝破したり、芸術が技術によって脅かされていると危惧したりする人もいる。いままさに、人間によって生み出されてきた「文化」と「文明」のあいだに、これまでには想定されていなかった新たな問いや議論が日々生まれている。
本稿では、文化について文明との対比を出発点に考えていくが、目的はそれぞれの定義や切り分けを明確にすることではない。むしろ考えてみたいのはその「あいだ」にあるものであり、文化を文明と切り分けることで見過ごされてきたかもしれないものについてである。文化と文明の二項対立や二元論を超えて、一見相反するもの同士のグラデーションもしくは共存のなかに、あらためて「文化」とは何かを思索するための視点を探ってみたい。
文化vs文明?
文化とは何か。日常的に使っていながらあらためて考えてみると捉えどころのない言葉である。上に引用したように、文化はしばしば文明と対置されるが、歴史をひも解けば、そもそも文明と文化はかつていまほど明確に区別されずに使われていたという。自然との対比として、人間がつくりだしたものすべてを文化、もしくは文明と言ったりもしているのである。しかし、現代では文化と文明は対置して語られることがある。少なくとも本稿ではいったんそのように文化と文明を対置的な概念として捉えることにしてみよう。では、文明と文化を分けているものとはいったい何だろうか。そこにも多様な捉え方が存在する。
普遍性と特殊性、単一性と多様性、合理性と不合理性、物質性と精神性、どちらが文明でどちらが文化を言い表しているかと問われれば、多くの人は次のように答えるだろう。
文明は普遍的で、文化は特殊性がある。
文明は単一的で、文化は多様である。
文明は合理的で、文化は不合理である。
文明は物質的で、文化は精神的である。
「わかることは分けること」という言い方もあるように、一般的に何か物事について考えるとき、ある概念を互いに相反するふたつの概念に区分する二分法は、論理的思考のためのシンプルで強力な道具である。しかし、一歩踏み込んでよくよく考えてみるとつねにその線引きは曖昧で、一見明確に分けることができそうな対照的な概念のあいだにもグラデーションが存在する。文明は普遍的で文化は特殊なものとあるが、特殊性を持った文明はありえないのか。逆に普遍性を持った文化はありえないのか。多様性を持った文明、合理性を持った文化、精神的文明、物質的な文化。本稿では、そんな文化の文明性や文明の文化性といったものについて考えを進めてみたい。
文化と文明のものさし
文明と文化を分けるものを考えたとき、文明には、より速くより強く、昔よりいま、いまより未来に向かってつねに前に進んでいく進歩主義的な側面がある。「高度な文明」「行き過ぎた文明」という言い方がされるように、文明はその優劣や高低を測ることができる。文明には普遍的で、単一的で、合理的で、物質的な「ものさし」があるのである。
拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』(ビー・エヌ・エヌ)で紹介した、産業文明批判で知られる思想家イヴァン・イリイチの言う「ふたつの分水嶺」という視点も、文明を善悪や敵味方といった二元論的に捉えるのではなく、不足と過剰のあいだに留まるバランスについて考えさせるものだが、そこにもやはり、不足と過剰を測る「ものさし」がなにかしら想定されているとも言える。イリイチと同じく1970年代に適正技術という概念を提唱したシューマッハーによる「スモール・イズ・ビューティフル」というメッセージもまた、大小という「ものさし」のなかで、適正な規模に留まることの重要性を述べたものだ。
一方で、文化にはそうしたわかりやすい「ものさし」はない。ある音楽ジャンルのなかで良し悪しは語られるが、異なる音楽ジャンルのあいだに、文化としての優劣をつけることはナンセンスだ。文化をほかの文化と比べることはできない。特殊で、多様で、不合理で、精神的なものを「ものさし」では測れない。雑誌『広告』の「価値」特集号(Vol.413)で文化人類学者の松村圭一郎さんは、次のように語っている。
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