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89 「虚」の「構築」について 〜 まんが原作者 大塚英志 インタビュー

「物語」の力を感じない日はない。何かを買ったり、何かを決断する際に、単純なスペック的な価値以外に大きく左右される。その決断に対する家族の反応や、その店主との関係や、自分の過去の失敗といったものが作用する。初めて出会ったコト、モノ、ヒトの歴史やエピソードに、シンパシーを感じたり、好奇心を刺激されたりと、人はとかく「物語」に影響されるものである。その「物語」の中身はと言えば、すべてがドキュメントではない。噂話もあれば、つくり話もある。いわゆる「虚構(フィクション)」だ。小説や映画、アニメがそれに当たる。マーケティングの類も、この「虚構」の力に頼ることは多い。一般的な「虚構」は、現実を一時忘れるための手段として消費されて終わる。しかし、時代の名作と呼ばれる物語は、ときに受け手の人生の一部になるなど、「虚」が「実」と混ざり合ったり、「虚」が「実」となる瞬間がある。それこそ、現実のなかにうまく「虚」を「構築」しているとも考えられる。そういった「虚」を構築していくという観点から、物語づくりとあらためて向き合いたい。『魍魎戦記MADARA』『多重人格探偵サイコ』などの原作者であり、『物語消費論 「ビックリマン」の神話学』『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン』(ともに星海社)など、ストーリーテリングの評論を多数執筆している、まんが原作者で国際日本文化研究センター教授の大塚英志氏に、「物語」について聞いてみた。

物語の基本構造

── 物語の基本構造にはどのようなものがあるのでしょうか?

大塚:代表的なもののなかに、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』で示されている「行って帰る」という構造があります。児童文学者の瀬田貞二さんが「行きて帰りし物語」という言い方をしていて、児童文学の基本的な形式だと言われています。いちばん有名なのは『アンガスとあひる』です。アンガスというテリア犬がいて、いつも部屋にいたり紐につながれて表の世界を知らなかった。ある日、ずっと気になっていた変な声がする庭の生垣の向こう側に出る。その声の正体だったあひるから急に追いかけられびっくりして部屋のソファーの下に逃げ帰る。これが「行きて帰りし物語」で、自分たちの日常の外側に出て、安心できる場所に戻ってくる。つまり、「世界はいろいろあるかもしれないけれど、最終的には安定的なものなんだよ」というのを示すのが児童文学の役割なんです。そのなかで、「行く先」というのはもっとも危険な場所──自我や日常からもっとも遠い場所なんです。たとえばハリウッド映画の文法だと、もっとも危険な場所への接近がクライマックスになるわけです。普段自分がいる世界の「向こう側」に行く話であり、それも行って帰るという構造になっています。

── 物語のなかには理想の自分を追い求めるものもありますよね。

大塚:それは物語の基本の文法で、何かが欠けた状態である「私」が、その欠けているものを取り戻すという形式です。まさに、シェル・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』という絵本がそうで、パックマンのようなキャラクターが失くしてしまった自分のピースを探すという物語です。

欠けたものは大抵の場合、本当の自分なんですよね。これは近代小説のひとつの形態でビルドゥングスロマーン(Bildungsroman、教養小説)と言われる自己を形成していく小説です。理想の自分、本当の自分と聞くと、セゾンカードの有名なコピーで「なーんだ、捜してたのは、自分だった。」という名作を思い出します。同時期に、「何かが欠けている」という喪失感によって始まる吉本ばななの小説『哀しい予感』(角川書店)もありますよね。理想の自分をつくった段階ですべて虚なわけで、本当の自分というのは物語論的なんです。

── 自分を物語る「私小説」はなぜ生まれたのでしょうか?

大塚:近代とは「私」を表出しなくてはならない時代、というのもすでに古い言い方ですが、異様に承認欲求が強い社会になってくわけです。「私」のことを語ってほしい、理解してほしい、という「欲求」と、「私」にならなければいけないという「抑圧」が生まれるのです。一方で、「私」を担保しないと社会が成立しないことになっている。つまり近代とは「私とあなたが違う」というところから生まれているんです。

近代以前の村社会においては、ばったり会った人の名前だけではなくて、親やじいちゃんばあちゃん、田んぼの面積まで全部知っている。個人情報がすべてだだ漏れな世界なわけですよね。そういう村を飛び出して都会にやってきて、近代国家をつくろうとしてきた青年たちは、そこにいる相手が、誰だかわからないということを初めて経験するわけですよ。坂本龍馬や西郷隆盛たちが明治期に近代国家をつくっていくときに、敵か味方かさえもわからないんです。だからそのときに「私」の内面はこうですというカミングアウトするみたいな制度が生まれる。それから今度は相手を観察する主体として「私」というのが生まれていく。そしてそういったものを形式化して表現する言文一致体の一人称という、わかりやすく普遍化された文体ができる。そうして私小説が生まれたんです。

情報処理技術としての物語

── 物語のなかには、あえて語らない「余白」というのがありますよね。

大塚:余白というのは、典型的な受容理論といって文学理論です。つまり空白をつくり、その空白を読者が埋めようとすることが読むという経験だとする、ポストモダン的な受容理論です。

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