21 誤配という戦略 〜 必要とされないものを、いかにつくり続けるか
人々が必要だと思うものや、社会が必要とするものをつくり、届けることはある意味易しい。ニーズに沿ったものをつくれば、手にとってもらえるからだ。一方、人々が必要性に気づいていないもの、受け手にとって無用に思えるものをつくり、届けるのは簡単なことではない。
そして、それをやり続けることはなおさら難しい。そのことに成功しているのが、思想家の東浩紀さんが経営する出版社「ゲンロン」だ。ゲンロンの戦略は、思想や哲学といった「等価交換の外部」にあるものを「等価交換の回路に忍び込ませる」ことだという。8年以上にわたり、一企業が「等価交換の外部」を人々に届け続けられたのはなぜなのか? 実践の背後にある思想を伺った。
人が必要と気づいていないものを届ける
── まず、ゲンロンの活動について教えてください。
会社の設立は2010年です。当初コンテクチュアズという社名で、いろいろな人が集まって自由に雑誌をつくるような気楽な場所を想定していました。ですが、経営していくうちに組織を維持することの難しさがわかってきた。震災も起こり、世の中に役立つことをしなければ、という意識の変化もありました。そこから本格的に動き始めたと言えます。
最初は雑誌をつくるだけでしたが、ゲンロンカフェという形でトークイベントを企画したらうまくいった。そういう活動を続けていくうちに、人と人とが集まって出会う場をつくることが大事だと考えるようになってきました。
── どのような人が集まる場を目指しているのでしょうか。
哲学、批評、思想を必要としている人たちです。哲学や批評というのは、たとえて言えば、医師のようなもの。健康な人には必要ありません。そして、世の中のある時点を見れば、健康な人が大多数を占めている。ですが、ひとりの人間を見れば、人生ずっと健康ということはなく、どこかの時点で医師が必要になるように、哲学や批評、思想が必要になる局面に人はいつか遭遇する。そういった人のための場ですね。
©百頭 たけし
── 最近、世の中にはオンラインサロンが多くありますが、それらとゲンロンはどう違うのでしょう。
比較されることはときどきありますが、オンラインサロンはサプリメントや美容整形みたいなもの。それはそれで必要なのでしょうが、ぼくがやりたいこととは違います。
先ほどのたとえで言うと、医師は患者が言うとおりに処置するわけではありません。「痛みを止めてください」と患者が言っても、すぐ痛み止めを処方して終わりではなく、原因となる疾患を治そうとしますよね。通常の取引であれば、売り手は買い手の要望に応えて終わりです。
でも医療行為においては、あくまで取引でありながら、売り手は買い手の要望を聞くとは限らない。買い手の言うことは聞かずに問題解決を図ることがある。哲学、批評、思想も同じです。
たとえば「自分に自信が持てないんです」という人が来たとします。オンラインサロンなら「君は君のままでいい、自信を持とう」などと言ってくれるかもしれません。一時的にはそれでよくなるのでしょうが、原因が解決していない以上、いずれ元に戻ってしまいます。
ゲンロンの場合は「君に自信がないことはわかった。ところで、こんな話があるんだけど聞いてみたら?」とまったく関係のない話を聞かせたりする。それを聞いているうちに、自分以外のことに関心を持てるようになったり、ほかの客と仲よくなったりして、当初の目的がどうでもよくなっていく。
これこそが「治癒」というものです。自己啓発自体を必要としなくなるわけですから。当初期待していたものと違うものを得る。にもかかわらず、それで問題が解決している。「誤配」と呼んだりしますが、そういう活動を行なっています。
── ほかに「誤配」がゲンロンの活動で起きた具体例はありますか。
これまでに5回開催したチェルノブイリツアーがいい例です。このツアーでは事前と事後にセミナーを開きます。事前セミナーの段階では、参加者はみんな原発に関心を持っている。しかし、事後には原発以外のことが印象的だったと答えるようになるんです。
まさに、当初期待していたものと違うものを持ち帰ってくる。とはいえ、原発を視察するし、現地の人に話を聞くので、原発の知識が深まっていないかというと、そうではない。知識は深くなっていますが、同時に関心が広がり、問題が相対化される。このズレこそが大事なんです。
── 本や雑誌のように、受け手との間に直接のやり取りがない場合でも同じなのでしょうか。
ぼくの本には変わった本が多いんです。誤配ばかりと言ってもいいかもしれない。特殊に思えるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば、日常会話は誤配に満ちています。このインタビューもそうだと思いますが、これを聞いたらこう返ってくるだろう、という期待からどんどんズレていく。でもそれでいい。そういうことは、普段の会話でも頻繁に起こります。本を書くときは、そういう感覚ですね。
でも、本を読むという行為も本来はそういうものではないでしょうか。問題集を買っているわけではないのですから。昔はそういう本が数多くありました。そういう本ばかりだったと言ってもいいかもしれない。ですが、最近は少ないですね。いまは、消費者はすぐSNSなどで感想を書きます。
そこで「読んでみたけれど予想と違った」というのはネガティブにとらえられがち。「誤配」をポジティブにとらえる人は多くないでしょう。そんな環境下では、読者の期待にそのまま応えない本を出すのは難しいのでしょうね。
ゲンロンは、そのズレをポジティブにとらえる人が集まる場にしたい、ということでもありますね。
©百頭 たけし
長期的な視点で「無駄」を織り込む
── そのようなズレは、たとえばゲンロンカフェのイベントではどのようにつくっていくのでしょうか。
事前にズレを仕込むのには限界があります。その場で生まれたものをすくい上げていく。そのためには、非常に単純なことですが、時間と場所に余裕を持たせることが大事です。2.5時間のイベントであっても、1時間の延長はまったく問題ないような態勢をつくっておく。それによって、その場で起こったおもしろいことをすくい上げて、膨らませることができる。
短期的には、スタッフの人件費など無駄な部分が出ます。延長をしたらスタッフだけでなく、客からも文句が出る可能性すらある。ですがそれを織り込んで運営する。それによって、1回限りの運営で見れば非効率だけれど、トータルで見ればゲンロンに関するいいブランドイメージができ上がっていると考えています。
── 具体的には、どんなブランドイメージですか。
ひと言で言えば、「何が起こるかわからない」。ゲンロンカフェでなら、同じ人が登壇しても書店のトークイベントとは違うことが起きるだろう、という期待ですね。ひとたびイメージができ上がれば、登壇者も来場者もそのつもりでやってくるので、本当に「何が起こるかわからない」ようになります。
ですから、ゲンロンカフェの立ち上げ直後はそのイメージづくりに非常に苦労しました。ぼく自身も頻繁に登壇して夜中まで対談をするという体力勝負でした。あとは、遠方で参加できない人などのために有料でネット中継を行なったのも特別なイメージづくりに役立ちましたね。
── 最近の大学や企業ではそういったズレや無駄を許容する余裕が失われていると感じます。
社会全体が「お金を払う、それに対してサービスを提供する、利益最大化のためにサービスはなるべくコストのかからないものにする、その結果、長期的にはブランドが毀損される」というサイクルに陥っているのではないでしょうか。長期的に組織を運営するという意志があればそうはならないはずですが、流動性が高いことをよしとするのであれば、ブランドのような観点は生まれないのでしょう。
受け手の感性から変えていきたい
── 逆に、ゲンロンのこれから、もしくは、8年以上実践されて感じた課題などはありますか。
批評や思想は、この国では男性のものでした。この問題に本気で取り組まなければと、最近強く感じています。これは単純に女性の登壇者や執筆者を増やすということではありません。「論壇プロレス」という比喩が象徴的ですが、日本で批評を好む人は、著者や登壇者同士の対決を期待し、おもしろいと思うような面があります。それがすでに「男性的」なんですね。こういった「何をおもしろいと思うか」という受け手の感性から変えていかないといけない。
批評や哲学のイメージを変えていきたいんです。「ゲンロン」でこの40年くらいの批評を振り返ってわかったのは、「批評の歴史は袋小路だ」ということでした。コンテクチュアズを始めた頃には「批評の火を絶やさない」と思っていたのですが、最近では、むろん歴史を忘れ去る必要はないけれど、あのスタイルの批評をいまの時代に再起動、復活させる必要はないと思うようになりました。いまの時代に合った新しい批評の形をつくっていきたい。男女の問題というのはその一部ですね。
これも、客商売をやっているから考えられることです。観念的に「女性が少ないのはよくない」「女性を増やさなければ」というのとは違う。お客さんの変化を目の当たりにして、それに対応するためには考えざるを得なくなった。難しい課題で、具体的な解決策はまだありませんが、本気で取り組んでいかなければと感じています。
©百頭 たけし
「運営の思想」と「制作の思想」の統合
── 東さんは自身が経営に携わることを重視しています。その背景には、「運営の思想」と「制作の思想」の対立があり、このふたつを統合しないといいものはつくれないとお考えだと伺いました。
ものすごく単純化してしまえば、「運営の思想」は金儲けを、「制作の思想」はよりよいものをつくろうとする思想です。別の言い方をすれば、運営の思想は目の前に見えるお金や商品、客の要望といった「フロー」を重視する思想です。制作の思想は別の軸。時間的にも幅があり、「客が欲しがるものには応えない」ことも起こりえます。先ほどの話で言えば、ブランドを構築するような長期的な時間ですね。だから、このふたつの思想は対立するものです。金儲けを優先するといろいろなことができなくなることはよくありますよね。
もしゲンロンの利益を最大化しようとして、コンサルに経営を任せたら、出版なんてやめてしまって、もっとも費用対効果が高いぼくのイベントだけ残す、という判断を下すのではないかと思います。
短期的にはそれでいいのかもしれない。ですが、長期的には先細りです。ぼく自身のモチベーションだって、いくら儲かるとわかっていても、きっと続かないと思います。赤字でもほかの人のイベントが必要だというのは、先を見据えると合理的なのですが、目前の利益を最適化する視点からは生まれません。
同時に、制作の側も「自分は金儲けには関係ない」と超然としていると、結局はお金を持ってくる運営に首根っこを押さえられ、依存体質になってしまいます。いまも演劇の世界では、小さな劇団は活動資金が助成金や寄付金頼みになり、それらの外部資金を引っ張ってこられるスタッフが歓迎されると聞いています。
そのような依存を防ぐには、制作サイドもある程度金勘定をできるようになる必要があります。あたりまえの話かもしれませんが、いまの世の中はそれすら忘れかけているように思えます。制作者は制作に集中し、優秀なマネージャーができたものを売りさばいていく、という分業の発想では、長期的にはいいものはできないとぼくは思っているんです。
── いまおっしゃった、「運営の思想」と「制作の思想」の融合や東さんの取り組みは、FXなどで稼いだお金で自分のやりたいことに取り組む、というものとはどう違うのでしょうか。
ほかで儲けたお金で好きにつくったものは自己満足に終わってしまうのではないでしょうか。お金を稼がなくてよくなってしまうと、他者がいなくなってしまう。いいものをつくるには、他者とのインタラクションが不可欠。そして、インタラクションのなかでもっとも残酷なものがお金です。
自分の取り組みに対して、他者が非常に明確な形で判断を下す。それを受け止めることで、よりよいものをつくることができる。制作者にとってお金の「有効な」使い方のひとつだと思います。
これは、ゲンロンカフェがつねに有料であることにも関係します。無料イベントはいろいろな人が来るオープンな場だと言われがちですが、ぼくはそう思いません。無料になってしまうと、内容がダメでも客に文句を言う権利はない。インタラクションがなくなるし、逆に、内容に関係なく満足するような人、つまり登壇者のファンばかりが来ることにもなる。
有料だからこそ「金を払っているのだから言う権利がある」とダメ出しもされるし、アンチも来る。多様な人が来るオープンな場は、適切な値付けがあって初めて可能になる。イベントを運営して、そんな感触を持っています。
©百頭 たけし
「商品」になることを否定してはいけない
── ものづくりをする人々の間には、自分のやりたいことに取り組む「ライフワーク」と、生活するための「ライスワーク」という言葉があります。ゲンロンの活動は、このような同じ能力やスキルを使って違う客に届けるやり方ともやはり異なるのでしょうか。
繰り返しになりますが、ゲンロンではサプリメントを求めて来た人にサプリメントを出しません。「ライスワーク」が「発注されたとおりのものをつくって納品する」ことを指すのであれば、そういった活動は行なっていない。
ですが、そもそもクリエイターというのは、言われたことを粛々とこなすのではなく、「あなたはこう言っていますが、本当はこれが欲しいんじゃないですか」と、仕様書をあえて無視するときに創造性を発揮するものではないでしょうか。
また、自分のやりたいことに取り組むのが「ライフワーク」ならば、ゲンロンはそれをしているわけでもありません。ぼくがゲンロンで取り組んでいるのは、「自分がやりたいこと」を届けるのではなく、「相手が必要だと気づいていないもの」を届けること。先ほど大事だと言った「ズレ」も、こちらが必要だと思って入れるものではない。みんなが必要としているのに、それに気づいていないからこそ、ズラしている。
もちろん、商品としての満足度をきちんと提供することも大事です。その上で、余剰分を多く用意している。イベントであれば定刻に始まり、定刻で終了みたいに粛々とやるのが一番合理的でも、コストをかけて余剰をつくる。これが、商品への期待とは関係なく「こういうテーマと告知しましたが、今日はそれはやめにして……」などとやってしまったら、お客さんは単に来なくなってしまう。だから、商品としての期待に応える部分をきちんとつくることは前提です。
── ゲンロンはアートやマンガ、SF創作のスクールも運営しており、複数の卒業生が受賞するなど、教育面でも成果が出ています。スクールの生徒にも先ほどおっしゃったような姿勢を教えているのでしょうか。
たとえば、マンガ家育成のスクール(「ゲンロン ひらめき☆マンガ教室」)でも、「とにかく商業誌の編集者に持っていけ」と指導しています。君たちは商業に乗らないアートマンガでやっていくんだ、というのなら話は早いのですが、ぼくは「商業ルートの上で変なことをやる」というほうがおもしろいと思いますね。ほかのジャンルでも同じだと思います。
結局、商品になることを否定してはダメなんです。繰り返しになりますが、人は自分が欲しいものをわかっていない。自分が必要とするものとは別のものを買いに来るわけです。そして、クリエイションというのは、相手が気づいていないけれど実は必要とするものを与えることなんです。商品になることを否定しては、本当に欲しいものを届けられる可能性まで否定することになってしまいます。
また、ものを教えるという行為も、「その人が必要性に気づいていないもの」を与えるという意味で、クリエイションと同じです。スクールへ来る人たちは端的に言ってアマチュアです。そんなアマチュア同士が自分たちの作品だけを見せ合って高め合う、というのは不可能ですよね。作品はみな不完全で、それだけ見ても何もわからない。
ではどうするかというと、そこで、生徒同士が相互の人となりを知って、「作品には表れていないけれど、こいつはこういう人間だから、これを表現したいんじゃないか」と不完全なものの「背後」を推測できるようにしていく。それで初めて、「君にはこういう要素が必要なんじゃないか」と言い合って高め合う場をつくることができる。そうすると教室として機能する。
つまり、人と人とのコミュニケーションを分厚くして、教師と生徒の間、生徒と生徒の間に、「その人が必要性に気づいていないもの」をお互いに見出せるような環境をつくっていくのです。そうでなければ、人なんて育てられない。ゲンロンのスクールはそういう観点に立って運営していますが、いまどきそういう考えで教育に取り組むのは珍しいのではないでしょうか。いまの教育機関では人間関係を深めることはリスクととらえられていますからね。
©百頭 たけし
モチベーションを保つことの難しさ
── 先ほど、運営の思想を追求していたらモチベーションが続かなかったかもしれない、とおっしゃいました。いまの東さんのモチベーションの源はどこにあるのでしょう。
とても大事な問題です。そもそも批評家とか知識人は、ある程度の年齢、たとえば40代にもなるとやる気を失くします。若い頃なら「社会を変えたい」「日本を変えたい」といった「やりたいこと」があるかもしれない。しかし、何を言っても実際には世の中は変わらない。年齢を重ねるとその現実を目の当たりにします。
とくに日本ではこの10年20年その停滞が顕著ですし、この困難な状態はしばらく続くでしょう。モチベーションというのは、自分の言動によって世界が変わるから保てるものです。激動期であれば別でしょうが、いまの日本ではそうそう変化は期待できない。
実際に、やる気を失って「そろそろ大学にでも就職しようか」「学部長でも目指してみるか」と転身した批評家や思想家をぼくは何人も見てきました。そして、自身が本当に望んでいるわけでもない権力欲に駆られて争いに身を投じ、いざ学部長の椅子に座って「あれ、自分は本当にこれをやりたかったんだっけ」と我に返る。
ぼくはそんな風には生きたくなかった。とはいえ、世界を変えることができるとも思っていない。それでも踏みとどまっているのは、ゲンロンを経営することで新しい人、来場者でも登壇者でも、いろいろな人に出会えるからですね。客商売のいいところです。2,500円払えば誰でも来られる場なので、本当にいろいろな人が来る。来場者に話しかけるとそれまで想像もしたことのない仕事をしていたりする。そういう人がぼくの本を読んでくれている、ということが、刺激になりモチベーションになっています。
自分のモチベーションを高く保つのが難しくなるのは、クリエイターでも同じではないでしょうか。無我夢中でつくってきたけれど、世の中にはあふれるほどものがあるし、これ以上、何か付け加えることがあるだろうか、みたいな。もちろんずっと内側からのモチベーションを保てる天才もいるのでしょうが、それは例外でしょう。多くのクリエイターや文筆家などはどこかで「俺は何をやっているんだろう」と思う局面が訪れる。その危機をどう乗り越えるかというときに、ぼくの場合はゲンロンが役に立ちました。
「その人が本当は望んでいること」を感じ取る
── ゲンロンの様々な取り組みには、「その人自身も気づいていない、その人にとって必要なものを届ける」という一本の芯がとおっているのですね。それを8年以上、企業として続けられているという事実は、ものづくりを取り巻く論理が市場原理ばかりで窮屈さを感じている人にとっても大きな励みになると思います。
話が変わるようなんですが、水俣病のあとに石牟礼道子が『苦海浄土』(講談社)という本を出しています。水俣病についての社会的認識を変えた非常に重要な著作です。その本には、水俣病に苦しむ人が水俣弁で自分の人生について滔々と語る場面がいくつも出てきます。実名もたくさん出てくる。誰もがこれを聞き語りだと思うんです。
ですが、実はこれは創作なんです。文庫版のあとがきで編集者が書いています。ではなぜそういう形になったのか。編集者が石牟礼さんに聞いたところ、「話を聞いていると、心のなかでそう言っているのが聞こえるんだ」と答えているんですね。
これはすごいことです。ドキュメンタリーとは何かというのを根本的に考え直す契機にもなる。
そもそも、水俣病に罹った人にインタビューしても、自分の半生を滔々と語るなんてことは起こるはずがないのです。福島でも沖縄でも同じだと思います。突然他人が話を聞きにやってきて、そこで本心を語るわけがない。つまり、ジャーナリストは、聞いたとおりに書いてはダメで、聞こえないことを活字にしなければならないのです。
しかし、もしいまの時代、たとえば福島で石牟礼さんが同じことをしたら「捏造」とされ、受け入れられなかったと思います。石牟礼さん自身も大宅壮一ノンフィクション賞の受賞を辞退していることからわかるように、ノンフィクションだと思っていなかった。でも当時はそれがノンフィクションとして受け入れられ、社会に大きな影響を与えた。
まさにこれが、「その人は本当は何を必要としているのか」の問題に答えることができた例だと思います。
いまの世の中では、何を求めているかわからなければまずヒアリング。そして言われたとおりにつくる。「なんかしっくり来ないなあ」と言われても「ヒアリングのときにそう答えましたよね、請求書はこちらです」みたいなやり方が蔓延しています。これではダメなんですよ。こういうのをライスワークと言っているんだと思いますが、ライスワークでも「本当に求めていること」を聞き取ろうとすれば、仕様書からズレていくはずなんです。
©百頭 たけし
── では、「本当に求めていること」はどうやって見つけるんでしょう?
そのために努力しようという話です(笑)。
── 医師なら勉強をして精度を高められたりするかと思うんですが。
そうですね。やはり訓練は有効だと思います。相手が本当に求めるものを届けるんだという意志を持って日々経験を積むことなんじゃないですかね。
── 人々が必要と思っていないもの、とくに思想や哲学のように具体的な「形」を持たないものをつくり、届けるゲンロンの取り組みは、東さんにしかできないようなアクロバティックなものではないかと思っていたのですが、お話を伺うと、非常に合理的だし、ストレートなものだと思えます。
そのとおりだと思います。先ほどの医師や日常会話のたとえでもわかるように、ゲンロンでやっているコミュニケーションは、本当は日常生活で普通に見られるものなんです。それが何か特殊なことに見えているとすれば、それは人々が「ものをつくったら、それに見合う対価を払って手に入れる。それで終わり」といった浅い資本主義的なものの見方に慣れすぎて、見えなくなっているだけです。
最近は「運営の思想」が優勢となり、「目の前のニーズに応えて、利益を最大化しよう、それでいい」といったスタンスで活動するような例が数多く見られます。そうではなく、「将来何をするのか」の長期的なビジョンを持って、物事に取り組む人がもっと増えるといいなと思っています。
©百頭 たけし
構成・聞き手:猪谷 誠一/文:猪谷 千香
東 浩紀 (あずま ひろき)
1971年生まれ。哲学者・作家。ゲンロン前代表、批評誌『ゲンロン』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)『ゲンロン0観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)『ゆるく考える』『テーマパーク化する地球』ほか多数。
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この記事は2019年7月24日に発売された雑誌『広告』リニューアル創刊号から転載しています。