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125 ディズニーの歴史から考える「ビジネス」と「クリエイティビティ」

ウォルト・ディズニー・カンパニー(以下、ディズニー)が、世界最大級のエンターテインメント・カンパニーであることは疑いない。現在はその長い歴史のなかでももっとも好調で、巨大化している時期だろう。ディズニーが提供する作品のことは誰もが知っているし、ある種のイメージも持っている。子どもから親、高齢者となっても引き継がれる、全年齢を対象とした「ディズニーというエンターテインメント企業」「ディズニー流の作品」が明確にできあがっていることは疑いない。

しかし、そんな「ディズニー流」が最初から存在していたわけでもない。クリエイティビティの会社ではあるが、そのクリエイティビティの方向とビジネスの方向が、つねに同じであったわけでもない。一方で、かかわる人々が変わっても、結果として受け継がれていったものもある。それこそが「ディズニー流」なのだろう。

ビジネス面を見れば、つねに矛盾を抱えつつも巨大化し、その巨大さを製品としてのコンテンツに反映し続けたのが、ディズニーという会社の本質でもある。では企業としてのディズニーがどう変遷し、大衆娯楽の世界をつくってきたのか。同社の歴史を辿りながら考えてみよう。


ウォルトとロイの「ディズニー」

ディズニーは1923年にアニメーション制作会社として生まれた。創業者は、ウォルター・イライアス・ディズニー。そう、ウォルト・ディズニーだ。

ただ、ウォルトがその前からアニメーション制作会社を経営していたことを知っている人は少ない。クリエイター気質のウォルトはディズニー立ち上げ前からアニメーション制作者として知られていたものの、経営は乱脈で、あまりうまくいっていなかった。

そこに経営側の責任者として参加し、ウォルトとともにディズニーをつくったのが、彼の兄であるロイ・オリヴァー・ディズニーだ。経営をロイが、制作をウォルトが担当する形となって、ようやくウォルトの手がける作品を安定的に販売していく流れとなる。ロイは、1971年に亡くなるまで経営の一線に立ち続け、われわれが知るディズニーの原型ができあがった。

ロイとウォルトのディズニーを考えるうえで重要なことがある。それは「最初は映画会社ではなかった」ことだ。ディズニーは当初、アニメーションを制作し、パートナーである映画配給会社に配給を依頼する立場だった。とくに1937年から1954年までは「RKO」と提携していた。RKOは『キング・コング』(1933年)、『市民ケーン』(1941年)といった、1930〜1940年代アメリカ映画を代表するヒット作をつくり上げたスタジオで、そこにディズニーの作品も含まれていた。『白雪姫』(1937年)、『ファンタジア』(1940年)などはこの時期の作品だ。

しかし1940年代後半以降、RKOの経営が不調に入ると、ディズニーは自身で配給会社「ブエナ・ビスタ・ディストリビューション」を設立する。現在の「ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ」だ。

自社で作品を持ち、魅力的なキャラクターをつくる。そこで、デザインだけでなく「動かす」魅力が強く存在したのが初期のディズニー、と言える。そうした「アニメート」の部分は、ウォード・キンボールやジョン・ラウンズベリーなど「ナイン・オールドメン」と呼ばれる作画チームの仕事であり、彼らをまとめ上げて長編アニメーションをつくっていく、という環境づくり自体がウォルトの仕事であり、特異なクリエイティビティの源泉であった。アニメーションはとにかく手間がかかるものであり、デザインの面で属人的ではあっても「動かす」面では工業的に多数の人を使うものである場合がほとんどだ。

ただ、1930年代から1950年代までのディズニーの長編は、「ナイン・オールドメン」の構成を最大に活かしたクラフトワークそのものであり、いまも真似するのが難しい。そして、そこからできあがった作品・キャラクターの権利を、少々極端なまでに大切にするのも、ディズニー流になった。その流れは、実際にはウォルトの時代にあったとも言える。

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