1_価値と人類

1 価値と人類 〜 松村圭一郎 × 『広告』編集長 小野直紀

「ものの価値」って何だろう。どうやって人はものに価値を感じているのだろうか。そんな根源的な疑問を文化人類学者の松村圭一郎氏に本誌編集長の小野直紀が投げかける。
松村氏は「すべての物事は再構築できる」との立場を取る“構築人類学”を提唱している。いまの時代に、価値あるものとは何なのか、これからどうやって価値あるものを生み出していけばいいのか。そうした問題意識に対して、人類学は“価値の再構築”の手がかりを提示できるか。

価値を決めるのは人の欲求か、社会の文化か?

小野:今日は松村さんに「ものの価値」についてお話をうかがいたいと思っています。いきなり抽象的な質問で恐縮ですが、そもそも、ものの価値って何なのですか?

松村:とてもおおざっぱに言うと、古典的な経済学は、「誰かが欲しがる」ことで価値が決まると考えます。たとえば「この時計が欲しい」と思う人がいて、初めてその時計に価値が生まれる。つまり、個人の欲求が価値を生み出すという図式です。

それに対して、人類学は「そもそも欲求が何に起因しているのか説明できないじゃないか」と疑義を唱えました。たとえば世界的なコーヒーの産地であるエチオピアでは、みんなコーヒーが大好きで、国民文化を代表する飲みもののように認識されています。でもエチオピアにはキリスト教徒が多く、100年前まで「コーヒーはイスラム教徒が持ち込んだ“悪魔の水”だ」と言われていました。このようにわれわれの欲求は変化するので、価値を考える際の普遍的な初期設定のように扱うのはおかしいというわけです。

では、価値はどこから生まれるのか。古典的な人類学は、「社会にはそれぞれ異なる文化があり、その文化が価値を決める」と考えました。たとえば、強いリーダーシップが評価される文化と、みんな横並びがいいという文化では、価値ある人の像が違いますよね。それと同じように、ものの価値も文化によって規定されると考えたのです。個人の欲求が価値を決めるという市場モデルか、それぞれの社会の文化が価値を決めるという文化相対主義か。ものの価値の考え方については、まずこのふたつのせめぎ合いがありました。

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『Untitled』© 今津 景 提供:ANOMALY

小野:なるほど。経済の論理だけで価値を語るのはずっと違和感があったのでとても興味深いです。人間の価値判断に文化が影響を及ぼすのはよくわかるのですが、人の価値観はどう形成されていくのかというのが気になります。

たとえば、「美しい」という価値観は、人類史から見ると食べものが腐っているかどうかの判断から生まれたと聞いたことがあります。つまり、腐っているものは食べられないから人間はグチャッとしたものを醜いと感じ、逆に腐っていないツルッとしたものを美しいものと抽象化してとらえるようになったと。これは人間の本能が価値を決めるという話だから、経済学のモデルに近いのですか?

松村:文化人類学者からすると、それはすごいおおざっぱ(笑)。だって日本人は納豆が大好きじゃないですか。発酵と腐敗はほとんど同じプロセス。日本ではその発酵してネバッとした納豆をありがたがっておいしくいただくのに、欧米では腐っているみたいで食べられないという。この違いは、人間の本能が価値を決めるというモデルでは説明できません。

小野:「食べられる/食べられない」「美しい/美しくない」と二元論で語るとわかりやすいですが、実際はその間にたくさんのグラデーションがあったり、文化によって正反対だったりしますよね。

丸いクッションに尻尾が生えた「Qoobo」という製品をご存じですか。触ると尻尾が動き、日本では「かわいい」と話題になりました。それに対して、アメリカでは賛否両論あって、「顔と手足のない猫」と呼ばれて不気味なものとして話題になりました。日本人は、ものに命が宿るアニミズムの考え方が根付いていて、顔や手足がなくてもあまり気に留めないのに対して、アメリカ人は、物体そのものを見てストレートにとらえる。
価値のとらえ方は、そうした文化の違いが大きいのだと思いました。

松村:文化が価値を決めると言いましたが、実は文化というひとことで説明した気になるのも危険です。文化は、価値の差異を説明したいときに、すごく便利。しかし、「この国の文化はこうだから、これに価値を置く」と決めるのも乱暴すぎます。

日本人の宗教観や世界観は「アニミズム」というひとことでくくってしまえるほど単純でも、均質でもありません。しかも、100年前に日本で暮らしていた人たちと、ものの考え方や価値観が大きく変化しているのはあきらかです。

もし文化がDNAのように身体に刷り込まれていて、私たちの行動や価値観を拘束するものだったら、こうした急速な変化は起きないでしょう。文化は変化しうるし、人間は文化から逸脱して行動することもある。日本人やアメリカ人の文化と言った瞬間に、そこにある多様性も歴史的変化も一色に塗りつぶされてしまいます。文化から価値を説明する見方にも限界があって、それだけでは世界の多様な価値観のズレは説明しきれない。

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『Standing Tathagata』 ©今津 景 提供:ANOMALY

文化は評価システムの体系である

小野:価値の源の説明として、先ほど「人間の本能的な欲求vs背景にある文化」という図式を教えてもらいました。人類学は後者の立場ですが、その文化も盤石ではないのですね。

松村:文化は評価システムの体系と言い換えてもいいと思います。だから評価の体系が揺らげば文化が変わり、それによってまた価値も変化していく。たとえば日本で認められなかった人が海外に行って認められ、日本でも再評価される“逆輸入”現象も、これで説明ができます。価値の低かった人が再評価されたのは、海外に権威性があるから。権威のある人が「いいね」と言うと、それに影響されて価値のヒエラルキーが揺らぎ、いままで認めていなかった人も「いいね」と評価するようになるわけです。

実は人間の欲求をベースにしたモデルでも、「人間は他者の欲望を真似する」と言われています。「欲望の三角形」という考え方ですね。いままで好きじゃなかった異性をまわりが「好きだ」と言い始めると、なんとなく自分も好きになっていく。そうした“欲望の模倣”が広がって、社会で価値が形成されていく。

小野:だとすると、自分の「いいね」が信じられなくなりません?

松村:ええ。自分の「いいね」は本当に私個人が判断しているのか、文化がさせているのか。権威に引きずられているのか、他人の欲望がそうさせているのか。そこはなかなか切り分けられない。

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『Couple』 ©今津 景 提供:ANOMALY

小野:テレビ番組で目隠しをして肉を食べ比べる企画がありますよね。あれは身体的な感覚で価値を判断しますが、味覚はそれまでの食生活の経験によって左右されるから、自分の判断というより文化の影響が強いのかもしれない。

松村:さらに言うと、食べログの点数が「おいしい」という判断に影響を与えることもあります。権威の影響にしろ、欲望の模倣にしろ、他者の評価がいつのまにか自分の評価のなかに紛れることがあって、自分の判断と思っているものも、つねに一定で変化しないわけではない。

結局、価値観は、他者とどうかかわるかということと切り離せません。同じ日本に暮らしていても、かかわる人たちが異なれば、そのかかわりのなかの小さな評価システムの影響を受けます。文化や社会は便利な言葉ですが、現実にはどんな人とかかわりながら生きているかによってかなり違いが生まれる。味覚なら、家庭でどんな食事をして育ったかが大きく影響するでしょう。だから、「同じ文化だから同じものに価値を感じる」とは簡単に言えないのです。

経済的合理性の低いものは、価値がないのか

小野:いまの社会でものの価値を考えるとき避けてとおれないのが「価格」です。松村さんは、価格をどのようなものだと考えていますか。

松村:価格は価値を示す指標のひとつですが、価値を部分的にしか示していないと考えたほうがいいんじゃないでしょうか。AさんがBさんに1,000円でものを売ったとします。このとき、ものの価値は1,000円で、ふたりは等価交換をしたように思われがちですが、実は違う。Aさんはものが1,000円より低い価値しかなく、売れば儲かると思ったから、1,000円で売った。Bさんは逆に1,000円より価値が高く、買えば得すると思ったから、1,000円で買った。つまり1,000円という価格はものの価値を直接表示しているのではなく、ふたりの間の価値のズレを調整した値を一時的に表示しているに過ぎない。また別のCさんが出てくると、その値も変化します。

小野:なんとなく言葉に近いものを感じますね。自分の考えを媒介するツールとして必要で、実際にそれでコミュニケーションが成り立つのだけど、必ずしもお互いに100%共通の認識ができているとは限らない。

松村:そうですね。たとえば「時計」と言ったときに、腕時計を想像する人もいれば、大きな古時計を想像する人もいる。その言葉に何を見出すのかは、確かに人によって違います。価格を含めた経済的な指標も同じで、同じ数字を見ていても、高いと感じたり、安いと感じたり、人によって意味合いが変わります。

小野:よく、経済的な価値と文化的な価値にはギャップがあると言われますよね。でも、そもそも僕が博報堂に入社したのは「文化と経済」の両方を肯定したかったからなんです。僕は学生のときに建築をやっていて、卒業制作では「文化と経済」をテーマにして合理性や効率性とは異なるアプローチで商業施設の設計をしました。自分のなかで広告会社はその延長線上にあった。当時『広告批評』という雑誌を読んで、広告は経済のなかでも文化の香りがするなと。

ところが、いざ入ってみるとド経済でした(笑)。僕が入社した頃からソリューションという言葉が幅を利かせていて、どうも気持ち悪かった。いま個人でデザインスタジオをつくってミラノサローネで発表を続けているのは、バランスを取る意味もあります。

やっぱり経済と文化は相性がよくないのかなと思う一方、フランスでノートルダム大聖堂が燃えて、ルイ・ヴィトンやグッチが合計で何百億円もの寄付をするというニュースには驚かされました。うがった目で見ると寄付金控除やブランディングといった目的があるのかもしれませんが、経済的合理性を追求する企業が文化的なものに価値を見出して、ポンと大金を投じるのは素直にすごいなと。これはどう考えたらいいんでしょう?

松村:フランスの人にとってノートルダム大聖堂は、ある種のアイデンティティーのシンボルで、お金には換算できないのでしょう。私は熊本出身ですが、地震で損傷した熊本城再建に多くの予算がついても反対する県民はほとんどいなかった。「復興を先に」と他県の人に言われても、いや、熊本城の再建こそが復興でしょ、と。

もうひとつ、歴史が価値を高めているという見方もできます。人類学者のデヴィッド・グレーバーは、歴史は行為の積み重ねで、古くから大切にされていること自体が、そのものの価値を構成すると言っています。ノートルダム大聖堂も様々な歴史を背負ってきたから、その歴史を共有するフランスの人にとって、お金に換算できない価値が生まれた。

小野:一方で、ノートルダム大聖堂への寄付が報じられてから、「建物より貧困を」とデモが起こりましたよね。これは価値観のぶつかり合いというより、状況の違いが背景にあるような気がしました。みんな文化的なものや歴史に敬意は抱いているのだけれど、いまの自分の生活に余裕がなければ、やはり「生活が大事」となる。

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『Broken Image』 ©今津 景 提供:ANOMALY

経済的合理性からの脱却の鍵は、人間の有限性にある

松村:経済的価値の話をするときに、いつも引っかかるところがあります。それは、私たち人間が有限な存在であることが忘れられているのではないかということ。人間は、ほどほどに生活が充足していれば、経済的価値を際限なく追い求めようとはしません。資産を墓場まで持っていけるわけではない。先日、あるイベントで「旅行とエアジョーダンだったら、エアジョーダンにお金を使う。なぜなら、スニーカーは資産になるから」という話がありました。そこには、人間の生が有限であるという視点がありません。まるで私たちがバランスシートのなかの世界に生きているように聞こえます。

小野:人間の生が有限だという視点は重要ですよね。自分はいずれ死ぬという前提に立つと、僕は経済的合理性より、いまこの瞬間に心が動くものを大事にしたいと思う。それが文化的な価値をつくるということなのかも。

文化的価値をつくるという話で言うと、今回、この雑誌『広告』の価格を1円に設定しました。会計上は当然赤字ですが、1円で取引する行為をとおして、読者に価値について考えてもらえるきっかけになればと。儲けることを求められない雑誌なので、この雑誌の値段の持つ意味について向き合いたいと思ったのです。

松村:会社がそれを許しているのがおもしろいですね。雑誌づくりをとおして社内の人材を育てるとか、新しい風を吹き込むとか、資産上の数字ではない何かを会社が見出している。

小野:それと70年以上の歴史からくる惰性もあるかと。

松村:惰性とおっしゃったけど、文化にも惰性の側面があるんですよ。合理的に説明はできなくて、ただずっと続いてきたから続けているって多いじゃないですか。でも、それがなくなった瞬間に、ノートルダム大聖堂みたいに、あれ、自分たちのシンボルがなくなったぞと騒ぎ出す。『広告』も、博報堂にとってのノートルダム大聖堂みたいな存在なのでしょう。

いずれにしても1円で売るのは興味深い試みです。ものへの評価は価格や売上で表示できると考えられますが、それが本当に評価の質的な総量を表示しうるかどうかはわからない。1円販売は、その問いかけになるんじゃないですか。

小野:そうですね。経済的価値を上位に置かないものの創出をやっていくためには、まずつくり手が、価格や売上ではない価値の測り方を提示していかなきゃいけない。ド経済が気持ち悪いと言った手前、その姿勢は見せたいなと(笑)。

松村:たぶん、多くの人が経済的価値ばかり追い求めることに違和感を抱いていると思います。普通はみんなその違和感に蓋をして生きていますが、小野さんは蓋を開けようとする。文化人類学は自分のなかの違和感を問いにして考え始める学問なので、アプローチはよく似ていますよね。

社会に設定された初期値がずっと正しければいいですが、状況はいつか変わります。それなのに初期値の上で帳尻合わせだけをやっていたら、社会はおかしな方向に行ってしまう。最初の設定自体を問い直す動きは必要で、小野さんや私がやっているのは、まさにそういうこと。答えにたどり着かずにぐるぐる回り続けるだけかもしれないけど、誰かがやらないといけない。

小野:ものづくりはカタチをつくることなので、毎回、答えを出すんです。だけど、実は資本主義経済の枠組みのなかのすごく狭い問いに答えているだけで、「つくるとは何か」「生きるとは何か」といった本質的な問いはスルーされがち。経済的価値の枠組みからはみ出ることも、ある種の枠組みに収まる行為かもしれない。それを含めて「そもそも何だっけ?」という問いは繰り返していきたいです。

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『Goddess of Theater』 ©今津 景 提供:ANOMALY

すべての行為は、価値を社会に浸透させる「闘争」である

小野:今回の対談前に松村さんの書かれた『ブックガイドシリーズ 基本の30冊「文化人類学」』(人文書院)を読ませていただいたのですが、一番印象に残ったのは、先ほども出てきたグレーバーでした。人がものをつくったり買ったりする行為は、「それに価値がある」というシグナルになっていて、それが積み重なって社会に価値のコンセンサスができていく。すべての人は自分の信じる価値を社会に浸透させようとする「闘争」のなかにいるのだ、という理解をしたのですが、それを読んで、あ、僕は闘ってたんだとハッとさせられました。

松村:グレーバーは、文化などの価値体系は最初からあるというよりも、それぞれの行為によってつくられていくと言いました。資本主義経済も、私たち一人ひとりがパソコンで仕事をしたり、ものを買ったりする行為の結果として形成され、維持されています。自分は別に闘っていませんという人がいるかもしれませんが、何も考えずに現状を追認するのは、いまある価値体系を補強しているのと同じ。どちらにしても私たちの日々の行為は、文化や価値の体系を強固にしたり、逆に崩して新しくしたりしていく一手になっています。

小野:自分のすべての行為が社会の価値のあり方に加担しているという意識を持つと、ものをつくる姿勢も変わるような気がします。ものづくりとは、自分が価値だと感じるものを、価値だと感じてもらえる社会をつくること。そう解釈すると、ものづくりって壮大な試みですよね。

一方で、社会ですでに価値だと認識されているものを提供することは、経済的で合理的なのでしょうけど、安易な道ですよね。その道を選んだときに世の中が本当にいい方向に進むかどうかは、疑いを持っておかないといけない。

松村:短期的にはいいかもしれないけど、みんなが安易な選択をしたら、もう停滞しかない。これまでのやり方を踏襲するだけなら誰でもできます。価値をつくり出すというのは、あたりまえの前提を問い直して自分から一歩踏み出すようなことだろうと。

小野:いいですね。価値あるものをつくっていくためには、いま価値だと思われているものを疑うということが、とても素直な行為なんですね。

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『Maria Sforza (Mirror)』 ©今津 景 提供:ANOMALY

「違和感」が「疑い」を連れてくる

小野:疑うということについて、もう少し掘り下げて聞かせてください。松村さんの本に、文化人類学者がエチオピアなどに行ってフィールドワークをするのは、調査地と自分のいる場所を往復するなかで生じる「ズレ」や「違和感」を感じるためで、その違和感が「疑い」への出発点になるという話がありました。

松村:違和感は重要です。実は多くの文化人類学者は、歳を重ねるごとにフィールドワークがどんどんヘタになります。フィールドワークを重ねるうちに慣れてしまって、ファーストコンタクトの違和感や驚きが薄れていく。文化人類学者は熟達するだけではダメで、絶えずズレなきゃいけない。おそらくものづくりも同じで、いまある価値に馴染んで違和感を抱かなくなると、いいものをつくれなくなるかもしれません。

小野:世の中の価値に対して疑いの目を向けることは、自分を疑うことでもありますよね。つくり手は「自分は状況に馴染んで、追認していないか」と問うて、自分はいまの価値に加担するのか、それとも新たな価値をつくるのかを意識しないといけない。もちろん何かを選んで買ったり、「いいね」をしたりするのも価値をつくる闘争のひとつだから、受け手としても「このままでいいのか」と自分のなかの違和感に気づいていくのが理想でしょう。

ただ、現実は逆の方向に動いて、価値がめちゃくちゃ一極集中している印象があります。つくり手は手っ取り早く結果を欲しがって、「みんなが見ているものはこれ」というものを目指したがるじゃないですか。

松村:やっぱり考えてないんじゃないですかね。思考が停止している。

小野:考えてみると、僕自身、何から何まで考えているわけではありません。何かものをつくることについては人一倍こだわりがあるけれど、食にはあまりこだわりがなく、ファストフードでもウェルカム。これって、食にこだわる人にとっては思考停止ですよね。

同じように、僕がこだわりのある領域が、ほかの誰かにとって関心が低い領域であることは充分にありえます。僕たちは有限の存在ですから、すべての領域で考えるのは無理。人生において人は踏み出さない領域のほうが圧倒的に多いですから、総体として「みんなが思考停止している」ように見えるだけなのかもしれません。

もちろん、そのことを悲観的にとらえる必要はないと思います。全体として思考停止しているように見えても、人はそれぞれ、どこかの領域で違和感を持ち、疑い、踏み出そうとしている。そうポジティブに考えればいいのかなと。

松村:おっしゃるとおり、人間は有限なので全方位的に疑って踏み出すのは難しい。でもいろんな領域で、それぞれの人が抱える断片化した違和感が可視化されれば、それらがピピッとつながって、小さな渦になる瞬間があるはず。その渦をつくることが、価値あるものをつくるということなのかもしれません。

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『Repatriation』 ©今津 景 提供:ANOMALY

文:村上 敬

松村 圭一郎 (まつむら けいいちろう)
1975年、熊本生まれ。文化人類学者。岡山大学文学部准教授。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書・編著に『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、『文化人類学の思考法』(世界思想社)などがある。

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この記事は2019年7月24日に発売された雑誌『広告』リニューアル創刊号から転載しています。

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【リニューアル創刊記念イベント レポート】

この記事に登場する文化人類学者 松村圭一郎さんとトークイベントを行いました。

文化人類学者 松村圭一郎  × 『広告』編集長 小野直紀
〜 文化人類学は「ものの価値」を再構築できるか
こちらよりご覧ください


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