3 江戸時代の価値と経済
「ものの価値」について話すとき、ついついお金の話になりがちな昨今。しかしほんの数百年前に遡れば、お米や金・銀・銭(銅)で価値を換算している時代もあったのです。徳川幕府260余年、日本の近代社会の基盤がつくられた江戸時代には、いまにつながる様々な慣習や価値観が生まれました。現代の「価値」の源流は江戸にあり? 江戸の経済に精通する専門家・鈴木浩三氏に尋ねました。
Q1:江戸時代の通貨には、どんな種類があったのでしょうか?
A:流通していたのは金・銀・銭(銅)の3種類、日々レートが変わる変動相場制でした。
戦国時代までは当時の国際通貨だった銀と、宋や明から輸入した銭が中心でしたが、徳川家康は天下を取る前から金の貨幣鋳造を準備していました。その基礎となったのが、武田信玄がつくったシステムと人材。彼は領内の金山から掘り出した金で通貨を鋳造し、領内に流通させていました。家康は武田氏の滅亡と同時に鉱山技術者を含む貨幣鋳造と流通のシステムをそのまま吸収したのです。
家康のつくった通貨のしくみでは、交換レートは変動相場、金は東国、銀は西日本や日本海沿岸というように使われる地域が異なり、銭は全国で流通していました。金は小判など額面の定まった計数貨幣、銀は丁銀や豆板銀(まめいたぎん)などで、秤で量って目方で価値を決める秤量(ひょうりょう)貨幣、銭も計数貨幣でした。これが、金銀銭の三貨が通用する江戸時代の「三貨制」で、金・銀・銭の順に価値が高いと思われがちですが、実は、対等の本位貨幣として使われていたのです。徳川氏が通貨発行権を掌握して、“徳川の貨幣”を発行したことは、経済面における天下統一の象徴でした。
慶長小判(左)と慶長丁銀(右) 提供:東京国立博物館
Q2:江戸時代は、「お米」もお金になったのでしょうか?
A:お米と貨幣は価値の基準として両立していたので、換金・換銀のシステムが必要でした。ただし、貨幣経済の発達に伴って、江戸時代になった頃はものの交換基準だった米も、貨幣にとって代わられるようになりました。
お米を年貢として取り立てる武士にも、それを換銀(金)する手続きが必要。諸大名が大坂に置いた蔵屋敷は、年貢米を貨幣に交換するための施設でした。大坂は銀の流通圏だったので、米は銀貨に「換銀」されたのです。
当時、通貨を造っていたのが金貨を鋳造する「金座」と銀貨を鋳造する「銀座」。金座は江戸の町地の一等地、いまの日銀の場所にありました。最初の銀座は、徳川氏の上方の本拠地であった伏見につくられています。戦国時代には、各地の大名が私鋳銀貨をつくって流通させていましたが、それらをどんどん買い集めて徳川の銀貨につくり替えるには、水運の便がよく、流通が盛んな伏見は好都合だったからです。その後、銀座は京都に移り、大坂や駿府にも置かれました。江戸の銀座は駿府から移ったものです。
Q3:金、銀、銭は、どのように使い分けられていたのでしょう?
A:地域や扱うものの種類によって価値基準が異なりました。そろばんが横長なのは、3種を同時に計算するのに便利だったからです。
大ざっぱに言うと、西日本では銀、江戸では金が主に使われていました。もともと西日本では銀が貨幣として流通していたほか、長崎貿易をはじめ、海外との取引は銀が多かったので、京都や大坂でも銀貨が流通していたのです。
一方、江戸でものを買うときは金を使う。吉原の遊興費は金だけど、東海道あたりで混ざってくると、宿場女郎の料金表は金銀銭それぞれで表示されていたそうです。この時代の帳簿はいまより複雑で、日々レートが変動する金銀銭を同時につけています。そろばんが横に長いのは、こうした3種類の通貨を同時に計算するのに便利だったからなんですね。
江戸の場合、「銀の経済圏」であった上方から廻船で運ばれてくる「くだりもの」は銀で取引されていました。砂糖、茶、酒なども含まれます。一方、吉原の高級遊女や大名同士の贈答品などは金。また、庶民の食料品や日常品などは銭でした。
江戸時代の後期になって登場した蕎麦や握り寿司といった当時のファストフードも銭で決済されました。「ニ八蕎麦」といいますが、それは蕎麦1杯の値段が16文だったことに由来します。このように、ものやサービスの種類、地域などによって価値の基準は相対的だったのです。
『青楼絵抄年中行事』に描かれた吉原
提供:国立国会図書館デジタルコレクション
Q4:江戸の経済はどう拡大していったのでしょう?
A:家康が江戸に来てから約70年間にわたり、大規模な土木工事が江戸に集中して、全国の富が集められたことが大きな理由です。参勤交代も江戸にヒト・モノ・カネを集積させました。それらが江戸だけでなく、全国の経済を刺激し続けることになりました。
江戸に幕府を開いた家康は、江戸城や江戸市街の大改造を諸大名に命じました。これを「天下普請(大名側からは御手伝普請)(おてつだいぶしん)」と言います。それまでの江戸城は太田道灌以来の粗末なつくりでしたが、天下統一を果たした徳川氏の本拠地として、堅牢な城とそれを支えるための城下町づくりが始まったのです。大きな公共工事が長期間にわたったため、石垣の石材や材木などの資材はもちろん、関連する需要が急増して経済が大きく発展、労働力も集まりました。生鮮食料品のほか、芝居や遊郭などのレジャー需要も高まりました。
天下普請が一段落した頃に定まった参勤交代も、ヒト・モノ・カネを江戸に集中させることにつながりました。江戸在府といって、大名は隔年で江戸と国元に滞在、大名の正妻と跡継ぎは江戸での定住が義務付けられました。そのため、大勢の家来が殿様に従って江戸にやって来るだけでなく、二重生活になった大名の江戸屋敷の維持、冠婚葬祭をはじめ、幕府の高級官僚やほかの大名との交際には大変なコストがかかるようになりました。大名行列の旅行費用も莫大な額になっていったのです。
そうした天下普請や参勤交代の費用を調達するため、諸大名は大坂で年貢米を貨幣銀に換えて、江戸に送ることになる。それもあって大坂の米市場は大変繁栄し、世界初の先物取引による米の売買も行なわれるようになったのです。
Q5:江戸時代の高級品とは?
A:貴重だったお酒(清酒)、砂糖、薬に加えて、当時から「輸入もの」が好まれました。
江戸時代の初めから、砂糖は元々薬種問屋で取引されていました。薬種は輸入品が多く、大奥の女性たちが買い求めた呉服も京都から、呉服の材料の生糸も江戸時代の前半は明・清からの舶来もので、清酒も灘や伏見と上方から輸送されました。
これらは、江戸にはなかった当時の最先端技術や熟練した技でつくられたり、希少であったりといった価値の高い品々でした。長距離輸送のコストとも相まって、江戸では高い値が付きました。
日本人は昔から、遠方から来た舶来品を珍重する傾向にあります。『論語』などの書物で伝わる学問や思想もそうですね。正倉院にペルシャや中国から来た宝物がいまでも残っているのは、その証左かもしれません。いずれも現地には影も形もありませんが、日本には残っているのが特徴です。『論語と算盤(そろばん)』の著者・渋沢栄一が今度のお札になるくらいです。
ちなみに国産ものにおいては、やっぱり高品質の京都ブランドが一番。上方から江戸に来た品々は「くだりもの」と呼ばれて特別扱いでした。なお、「くだらない」という言葉の語源は、江戸周辺で生産され、上方から「くだって」こなかった価値の低いものを指す意味から来ています。
Q6:ものの価値はどう決まっていったのでしょうか?
A:社会や経済を取り巻く世の中の環境の変化によって価値は変動しました。
たとえば、天候は米価に直結します。また、幕府も諸大名も年貢を増収させるために米の収穫アップに力を注ぎますが、豊作時と同様、米が増えれば値段は安くなります。米価が安くなると、それに対する諸物価は相対的に高くなり、米の収入に依存していた武士の生活は苦しくなりました。
大規模な土木事業も、工事の進み具合によって石材や材木の価格が変動するなど、ものの値段に影響しました。石垣を築く時期は石材が高くなり、建物を建てる段階では材木の価格が上昇する。江戸名物の大火も同様です。元禄地震や安政江戸地震のときには、復興需要で建設資材や職人の人件費が急騰したほか、米・味噌などの日常品の値段も上がりました。
さらに、百万都市になった江戸の消費。これが大きくなったため、大坂などの上方に対していまでいう貿易赤字の体質に。そうなると、銀高金安になっていく。輸出の強い国の通貨が強く、輸入ばかりの国の通貨が弱くなるのと同じ構造でした。
Q7:高級品の価値は?
A:大名の「交際費」が、高級品の価格の形成において重要な鍵を握っていました。
当時の大名たちにとって、参勤交代と江戸在府は交際費のかさむ事業でした。なぜなら思いがけない天下普請を避けるためにも幕府高官やほかの大名家との情報交換や付き合いが重要だったからです。やり損なうと藩の取り潰しになる可能性もあるのでみんな必死。仇討ちで有名な「忠臣蔵」も、朝廷から派遣される勅使の接待役を播州赤穂浅野家が命じられたことが発端でした。畳替えなども含む接待に必要な経費は浅野家が負担していました。
そうしたなか、大名同士の交際や大名から幕府の高官への贈り物を中心とする高級品のマーケットが成長します。尾形光琳に始まる江戸琳派は、こうした贈答の場でよく登場したようです。ほかにも茶器や京都由来の織物が人気でした。
江戸藩邸には「留守居」と呼ばれる大使館の大使のような職があり、その留守居が様々な贈答品の手配や情報交換の根回しをしていました。この留守居の周辺でものの価値が高まっていったと言えるかもしれません。というのは、技術と手間の固まりのような美術工芸品の生産には、大小様々な関連業者がかかわっているので、裾野の広い産業なのです。経済力を増してきた町人たちも、そうした品々を大変好みました。そのため、江戸では贈答品関連の業種が異常なほど発達していました。このように大名の贈答品は高級品だけでなく、江戸の商工業の価格形成にも波及したと言えるでしょう。
『園部藩主参勤交代行列図』
提供:京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ
Q8:当時、インフレなどは起きなかったのでしょうか?
A:江戸で大規模な公共投資を行ない、関連需要が発生してインフレが加速する以上に経済が拡大したので、どんどん江戸にお金が集まるようになりました。
江戸時代の初め、年貢率は8公2民もしくは7公3民で、収穫した米の7~8割を領主が年貢として徴収していました(農民の手元に残るのは、来年使う種籾や生活の維持に必要な最低限の穀物だけ)。そうして全国から徴収された年貢の大半が、江戸での城郭や都市の整備といった大規模な公共投資に投入されました。
その結果、経済がスパイラルに拡大する局面が訪れました。そうなれば貨幣をいくら鋳造してもインフレは深刻化しません。旺盛な貨幣需要に吸収されたからです。元禄時代に金貨、銀貨、それぞれの質を落とした改鋳が行なわれ、小判1枚の購買力(価値)は下がりましたが、世の中に広く貨幣が浸透する効果も生んでいます。
戦国時代までは、大名たちが領地を争って戦い、耕地面積を増やすことで収入増を図りましたが、それができなくなった江戸時代では、農業技術の革新、土地改良や新田開発などの生産性向上による年貢の増収が工夫されるようになりました。
それも江戸前期の元禄時代にはほとんどやり尽くされ、大名家の財政は慢性的な赤字体質に。質素倹約で暮らしても焼け石に水でした。そうなると、大坂などの大商人から借金を重ねるようになります。これが「大名貸」です。つまり、経済面において、武士と町人の立場の逆転が始まったわけです。
しかし、武士がおカネを使えば使うほど経済は刺激されます。三貨の変動相場、先物取引などの経済の仕組みの発達とともに、江戸には全国の富がさらに集まるようになりました。(※1)
Q9:経済が豊かになると、ものの価値はどう変化したのでしょう?
A:成熟し豊かになってきた町人に、たくさんお金を使ってもらうには「ストーリー」が必要に。現代のコピーライターと言える平賀源内が大活躍しました。
商品経済が発達し、町人がお金を持つようになると、今度は彼らにお金を使わせる仕掛けが必要になりました。目の肥えた町人たちの心をつかむには、単に珍しいとか、高額なだけの商品やサービスだけではもの足りません。購買の動機となってくるのが、商品の背景に潜むコンテクストであり、ストーリー性が新たな価値となったのです。
現代のコピーライターとも言える平賀源内は、そんな時代に大活躍したひとり。発明家であり学者、また作家でもあった源内は、とにかく物事のストーリーテリングに長けた人物だったのでしょう。絵暦交換会を開催して浮世絵を広めたり、日本初の博覧会も企画したりしています。
破魔矢 提供:CHU/PIXTA
実は、大田区・新田神社の有名な「破魔矢」も源内の発案。神社仏閣の参詣・開帳ブームが続いていた江戸で、源内は新田神社の境内にしか生えない竹から矢のお守り「矢守」をつくって販売させました。というのは、当時ヒットしていた歌舞伎「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」(原作は源内、新田神社周辺で物語が展開)で、新田家に伝来する「水破兵破」の2筋の矢が悪者を退治する場面がおおいにウケていたからです。歌舞伎の世界を実体験できるストーリー性もあって、一気に矢守が大ブームになり、現在の破魔矢として定着するまでになりました。ほかの神社仏閣との差別化を図り、競争優位を実現させたわけです。
現代の価値も、それが語られる文脈や取り巻く環境次第で変化します。その基盤の多くは江戸から見つけることができるでしょう。
構成:塚田 有那/文:高橋 未玲
鈴木 浩三 (すずき こうぞう)
1960年、東京生まれ。中央大学法学部卒。筑波大学大学院ビジネス科学研究科修了。博士(経営学)。経済史家。主に経済・経営の視点から近世を研究。2007年に日本管理会計学会「論文賞」を受賞。著書に『地図で読みとく 江戸・東京の「地形と経済」のしくみ』(日本実業出版社)、『江戸の風評被害』『江戸の都市力』(ともに筑摩書房)などがある。
脚注
※1 こうした江戸の経済発展の事情については、鈴木浩三氏の最新著作『地図で読みとく 江戸・東京の「地形と経済」のしくみ』が詳しい。江戸の地理的条件から育まれた都市戦略や、天下普請や参勤交代といった大事業によって経済が活性化していくプロセスを紹介している。
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この記事は2019年7月24日に発売された雑誌『広告』リニューアル創刊号から転載しています。