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141 「日本の文化度は低いのか?」に答えるために

「私たちには文化が必要。それは私たちの尊厳です」。これはアメリカの批評家であるスーザン・ソンタグに対して、1990年代の厳しい戦時下にあったサラエヴォの市民が言った言葉だ。戦禍を目の当たりにしたソンタグの「何かできることは」という申し出に、そのサラエヴォ市民が求めたものは演劇の上演だった。セルビア軍に包囲され、食料やエネルギーも満足にない状況にあって、看護などの「エッセンシャル」な協力を想定していたソンタグにとっても思いも寄らない願い出だっただろう。「私たちは動物ではない。私たちは、ただ地下室で怯えたり、配給に並んだり、銃撃されたりするだけの人間ではない」。サラエヴォ市民の切なる気持ちに応えてソンタグが演出したサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』は、サラエヴォ包囲のなか計17回の上演を迎え、そのほぼすべてが満席だったという(※1)。

本稿の執筆にあたって編集部から頂戴したテーマは「日本の文化度は低いのか?」だ。ある国の文化度を指して「高い/低い」と評することがそもそも可能なのかという疑問がまず浮かぶが、一方で日常生活のなかで「日本は文化度が低いから」となかば自嘲的に言われるシーンにしばしば遭遇することも事実だ。「文化度」という言葉の用例は、雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」ではあまり見られないが、「Yahoo!リアルタイム検索」で検索すると数こそ多くないものの検索時期にかかわらずコンスタントにヒットする。投稿の内容から察するにどうやらそれは、文化的な活動を支援する制度が不十分であったり、異文化に対する拒絶的な振る舞いを見聞きしたりしたときに使われているようである。

文化的な活動を支援する制度については、各国の文化予算を比較するなどの手法でこれまでにも論じられてきた。いわく「ヨーロッパ諸国に比べて日本の文化予算はGDP比で著しく低い」「韓国は多額の予算を映画や音楽などのコンテンツ産業に費やしている」「アメリカは公的資金の割合が低いものの民間からの寄付が非常に多い」など。しかしながら、客観的な数字の比較による議論はわかりやすい反面、文化予算に含まれるものが統計により不揃いであったり、決して少なくない地方行政による予算の実態把握が煩雑であったりと問題点も指摘される。そもそも、金額の多寡が文化行政の成否を決定するものではないだろうという感想ももっともに思われる。

そこで、本稿では文化予算とは別の角度から、文化政策を巡る状況に着目してみたい。紙幅に限りがあることもあり、個別具体的な政策については触れられないが、文化政策の根拠となる法律がどのようになっているのか、また実施された政策がどのように評価されているのかについて、あらためて確認しておくことは「文化度」という極めて曖昧なものを考えるにあたり、いくつかの有効な視座を与えてくれるのではないだろうか。専門的な内容を扱うため、法律については、国や地方自治体の文化政策にかかわってきた小林真理氏(東京大学)に、評価については、イギリスの文化芸術の価値と評価に関する研究報告書を翻訳した中村美亜氏(九州大学)に話を伺い、協力をたまわった。


健康で文化的な最低限度の生活

そもそも国内法における最高法規である日本国憲法では、文化についてはどのように記されているのだろうか。文化芸術に深くかかわりそうなものとして21条「表現の自由」がすぐさま思い起こされるが、13条「幸福追求権」をはじめとする一連の精神的自由を保障する規定が文化に関するものとして考えられているようだ。また見逃せないのが、かの有名なフレーズ「健康で文化的な最低限度の生活」で知られる25条「生存権」において、憲法の条文で唯一「文化」という文言が現れるということだ。ここで言う「文化的な生活」というのは、いったい何を指しているのだろうか。

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