109 ドイツにおける「文化(Kultur)」概念の成立とその変質
0. はじめに
本稿は、18世紀後半から19世紀にかけて成立し、その後変質していった「文化」と「文明」を対置させるドイツ独特の「文化(Kultur)」概念について代表的な思想家をとおして説明していくことを目的としている。
そもそも「文化」という語は多義的な概念である。語源はラテン語の「cultura(耕作)」であり、紀元前1世紀に古代ローマの哲学者キケロが哲学を「cultura anima(精神の耕作)」と呼んだことはよく知られている。一気に時代を下って、ヨーロッパでは「文化」の語は13世紀頃から使われていたが、これが土地の耕作から、今日のような観念語として用いられ一般化するのは、もう一方の「文明」と同じく18世紀末から19世紀初頭にかけてである(※1)。
両概念とも社会関係の変化・変動のなかで生み出されてきた。ドイツにおける「文化」概念の成立、「文化」と「文明」の対置については次の3つの段階に区別できる。
以下、それぞれの段階がいかにして起こっていったかを見ていきたい。最後に日本へのドイツ「文化」概念の到来についても一瞥しよう。
1. ドイツ「文化」概念の成立(18世紀末〜19世紀初頭)
ドイツ独特の「文化」概念は英仏から始まった啓蒙主義における理性偏重への批判、とくにフランスのそれへの批判から、18世紀後半から19世紀初頭にかけて形成された。まずは、当時のドイツのフランスとの関係を見ていきたい。
1-1. ドイツとフランスの勢力関係
18世紀後半から19世紀初頭にかけては、神聖ローマ帝国(現在のドイツ・オーストリアなどにまたがる多民族帝国)の末期であった。国家体制としては、17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙思想の広がりを経た啓蒙絶対王政の時代であった。
当時のドイツ(約300の小国が分立)ではフランス語が公用語であり、フランスおよびフランス貴族文化の影響力が大きく、王侯・貴族など上層の立ち居振る舞いもフランス貴族の模倣であった。ドイツの知識人は1789年のフランス革命勃発を軒並み歓迎したが、国王処刑とジャコバン独裁によって一様に批判的・拒絶的となる。その後、ジャコバン独裁を打破し帝政を樹立したナポレオンによって、1806年に神聖ローマ帝国は解体される。ドイツ地域は40ほどの領邦国家に再編され、ライン川左岸地域は「ライン同盟」を結成しナポレオンの傘下に入った。
1-2. 宗教的背景
ドイツにおける「文化」概念の背景にはキリスト教信仰がある。といっても、18世紀のドイツでは知識人層においてはすでに世俗化が進み、神は世界の外にある超越的な絶対神から、とうに理神論ないし汎神論的な神(※2)となっていた。世俗化したとはいえ、キリスト教では、神の似姿として創造された人間は、神の方向へと自己完成していくという神に対する内面的な義務を負っていると考えられていた。
ドイツの偉大な啓蒙哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804年)は、究極的には神を根底におく理想主義的な道徳神学を説いた。彼の言う神とは、理論理性(物事を認識する能力)によっては認識できない「道徳学に属する概念」であり、人間が道徳的な行為を遂行するための目標ないし判断基準となる「最高叡智者」である(※3)。この神を拠り所として、人間は初めて義務として道徳的な行為を遂行できる。カントは、このような考え方において、道徳的主体としての人間の意志の自律性と、人間が神へと接近するために行なう無限の努力の可能性を説いたのである(※4)。
ちなみにカントはもっとも早く「文化」と「文明」を区別した人物でもある。彼はフランス革命勃発の5年前の書で、「社会的な行儀のよさと礼儀正しさ」を「文明化されていること(zivilisiert)」とし、「高度に洗練されていること(kultiviert)」を「芸術と学問」によるもの、かつ「道徳性」に関するものとした(※5)。
1-3. ヘルダー
フランス革命以前は、ドイツの「文化」概念は「文明」の概念とほとんど同義語であったのだが、対ナポレオン解放戦争(1813年)の頃までには、(対外侵略を「文明」の名において正当化したナポレオン時代を経て)自らを世界の中心とみなし、もっぱら「文明」の語を用いるフランスに対して、ドイツでは「文化」の語を対置的に用いるようになる(※6)。この方向へと大きな影響を与えた最初の思想家は、哲学者・民俗学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744〜1803年)であろう。
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