121 開かれた時代の「閉じた文化の意義」~ 哲学者 東浩紀 インタビュー
インターネットやSNSによって、あらゆる文化が公共の場に晒されている現代。誰もが様々な文化にアクセスしやすくなった反面、かつては閉じたコミュニティだからこそ醸成されていた何かが失われているのではないか? 文化やそれを育むコミュニティに、ある種の“閉じた”排他性がもたらす意義とはいったい何なのだろうか?
これらの問いに答えるのは、種々多様な言論人やプレイヤーを招いて広範な議論を展開する批評誌『ゲンロン』やイベントスペース「ゲンロンカフェ」、そして課金制の放送プラットフォーム「シラス」などを展開するゲンロンの創業者で、哲学者の東浩紀氏だ。
インターネットではコンテンツのフリー化が進行するなかで、会員制度やリアルイベント、課金制による動画コンテンツによって領域横断的な「知のプラットフォーム」の構築を志す東氏に、いまの時代に文化を育むうえで考えるべきことについて話を聞いた。
「インターネットが開いている」という幻想
──今回「閉じた文化の意義」というテーマで、お話をお聞きしたいと思います。東さんは現在シラスを立ち上げ、論者や観客とともに文化を育もうとしています。インターネットという開かれた空間のなかで、課金制での閉じた議論空間をつくる意義をうかがえればと。
東:まず「インターネットこそ開かれたものだ」という認識は乱暴だと思います。あたりまえですが新生児や高齢者など、すべての人がインターネットにアクセスできるわけではありません。インターネットで調べてわかる情報も、せいぜい1990年代後半以降のデータや、写真や動画であれば2000年代中盤以降のものがほとんどです。それより過去の情報を知ろうすると、図書館など旧来のライブラリを参照する必要があり、そこにある情報のデジタル化はまだまだ不充分です。
ですから、弱者や貧富の格差といった問題も含めて、そもそもインターネットがつくり出している開放性というのは社会のごく一部の階層の人たちだけに開かれているものにすぎない、という前提を持つことが必要です。
「インターネット=オープン」という幻想は、デジタルネイティブと言われる世代がマスコミの中心を占めるようになり、自分たちの世代体験を普遍的な真理のように拡散することで醸成されてきているように見えます。実際にはインターネットと無関係に生きている人たちはまだまだ数多くいるのに、この10年間ほど、インターネットの可能性やオープン性が過度に語られてきたのではないでしょうか。
──「インターネットが開かれている」のはある種の幻想ということですが、かつてのインターネット、たとえばツイッターが出てきた当時はオープンな議論が可能になると期待を持たれていた部分もあったと思います。
東:オープンとは何かというのは定義によって違うので、ツイッターはオープンともクローズとも言えます。けれど、重要なのはツイッターの言論がどんどん平板になっているということです。僕としては、文化を考えるにあたってはオープン/クローズという軸で考えるのはあまり有益ではなく、ある種の多様性を保証する偶然性がどれほど起こるのかが大事だと思います。僕の言い方で言えば“誤配”になります。「どれだけ誤配が起こりうるのか?」ということで考えたほうがいい。
いまのインターネットの世界は、YouTubeがわかりやすい例ですが、すべてのコンテンツにおいて、みんなに評判がよいものがさらに評判になるというアテンションエコノミーのロジックでつくられています。そもそも多様性を保証するようなものではありません。
アマゾンミュージックで1億曲聞けたところで、各自が自分の好きなジャンルの1万曲を聞いて一生が終わってしまうのであれば、結局多様性は実現できない。現実的に自分が触れられる音楽のなかに、様々な音楽があることが多様性です。インターネットは、コンテンツの数が多くなるように見えるけれど、実際に接触できるものは少数の人気のものに限られていて、実質的に文化を画一的にするという問題を抱えていると思います。
──アルゴリズムによって個人が見たいものだけが提示されたり、自分と似た意見を持つ人たちだけに囲まれるフィルターバブルやエコーチェンバーといった問題につながってきますが、インターネットが多様性を担保しない理由はどこにあるのですか?
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