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虚実

うそはほんととよくまざる
ほんとはうそとよくまざる
うそとほんとは
化合物

これは、谷川俊太郎さんの詩『うそとほんと』の一節です。僕ら人間には嘘と本当を明確に区別しようとする癖があります。不確かなものを不確かなままにしておくことが苦手で、白黒はっきりさせないと不安で不快なのです。それぞれの概念に「嘘」、「本当」と名前がついているように、頭のなかではふたつは分離可能なのかもしれません。しかし実際には、嘘や本当はどちらか単体ではなく、いつも混ざり合った状態で目の前に現れます。

似ているものに「フィクションとリアリティ」があります。「真実の愛を探す」と謳うリアリティショーが、巧みな編集や演出によって成り立っている一方で、「この物語はフィクションです」と注意書きがある漫画やドラマのなかで繰り広げられる人間模様に、真理が潜んでいることもあります。

「イメージと実体」もそうです。人が何か商品を買うとき、たとえば鞄を買うとすると、素材や色、大きさといったスペックだけを見て買うなんてことはほとんどありません。商品そのものだけではなく、どこのブランドか、いまの時流に合っているか、どんな評判なのかと、それに付随するイメージもあわせて買っているのです。

反対から見ると、それを買いたいという欲望や、それがいいものであるとする価値観は、その商品がまとうイメージによってつくり出されていると言えます。こうした商品が持つイメージは、かつては広告やマスメディアによって画一的につくられていました。大量生産大量消費の絶頂の時代は、みんなが同じ方向を向けば向くほど社会は成長しました。成長という指標をもって、人々の欲望や価値観がつくられていたのです。

現代においては、画一的なイメージを人々が共有することは昔に比べると少なくなりましたが、インターネットによって集団ごと、あるいは個人ごとに細分化されたイメージが植えつけられ、個別最適化された欲望や価値観がつくられるようになりました。近年では成長という指標のあり方に疑問符が投げかけられることが増えましたが、人々の欲望や価値観がつくり出される構造は大きくは変わっていないように思います。

価値観がつくられるのは、なにもイメージによってだけではありません。たとえば、おいしいとされる食べものが文化圏によって違うのは、それぞれの社会における環境や風習によって、おいしさに対する固有の価値観がつくられているからです。社会通念も同様で、自分が常識だと思っていることが、ほかの文化圏や時代においては非常識であるということはよくあります。

このことは、コロナ禍による社会の変化をとおしても見ることができます。たとえば、最近ではマスクはもはや下着のようなもので、他人に顔を見せるのは恥ずかしいと感じる人たちがいるそうです。僕自身は、すっかりリモートワークが定着し、料理や散歩をするようになり、仕事にも生活にも以前にはなかった習慣や価値観が生まれました。いまでは毎日出社することのほうが違和感があります。

イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリは、人類は認知革命によって「虚構を共有する力」を手に入れ、集団生活を営み複雑な社会を形成することができるようになったと言います。その結果生み出されたのが、国家や貨幣、法律や宗教、民主主義や資本主義といった社会を構成するシステム=虚構なのです。

これらの虚構は、人々を統制する制度として機能すればするほど、強固なものになっていきます。いま僕らが生きている現実は、そうした様々な虚構によってつくられているのです。

それでは、「現実は虚構によってつくられている」ということに気がついたとき、僕らはいったいどうすればよいのでしょうか。

さながら、映画『マトリックス』のなかで、青い薬を飲んでもう一度その虚構のなかに戻っていくのか、それとも赤い薬を飲んで虚構から抜け出すのか、二者択一をせまられている状況です──。

というのはミスリードで、そもそもこの選択肢自体に問題があります。青か赤か、虚構か現実かを分ける態度には、冒頭に書いた嘘と本当を区別しようとする人間の癖が見て取れます。どちらかを選ぶのではなく、このふたつを分離して考えることそのものに疑いを持たなければなりません。

とはいえ、「現実は虚構によってつくられている」というのは、あまりにも引いた目線過ぎて、つかみどころがありません。そこで、もっと寄った目線で、いまの現実をつくっているのは、個人的な体験や感情の蓄積であると考えてみるのはどうでしょうか。

離れて暮らす親、オンラインでしか話したことがない仕事相手。長年使っている食器、この冬に買ったコート。昔よく行った地元の遊園地、最近できた近所のパン屋。中学生のときに読んだ本、いまこの瞬間に流れてきた誰かのつぶやき。

これまで自分が出会った人や買ったもの、体験した出来事や見聞きした情報、そしてそれによって感じた気持ちの積み重ねによって、いまの自分が見ている現実がある。そう考えたほうが、現実がつくられたものであることを受け入れやすくなるのではないでしょうか。

現実は、コロナ禍によってもそうであったように、簡単に揺らぐものです。だから、現実の不確かさ、不安定さを心に留め、引いた目線と寄った目線を行き来しながら、ときに自分が見ている現実を疑い、ときに信じる。そのなかで、何が大切なのかを見極め、自分にとっての現実を能動的に築いていくことが大事なのではないかと考えます。

ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルは、あるものが存在するとき、そのもの自体、自分が見ているそれ、ほかの人が見ているそれ、この3つは別々に存在していると説きました。

この考え方に従うと、客観的、社会通念的な現実というものが存在すると同時に、自分にとっての固有の現実も確かに存在し、ほかの人にとっての現実もまた存在している。つまり、現実はひとつではないということになります。自分にとっての現実は誰かにとっての虚構かもしれないし、自分にとって大切なものは、誰かにとってはその存在すら気づかないものかもしれない。人間が多様なように、現実もまた多様なのです。

今回の『広告』では、全体テーマである「いいものをつくる、とは何か?」を思索する第四弾として「虚実」を特集します。

ものをつくるうえで、つくる対象に向き合うことは、同時につくり手である自分と受け手である他者、そしてそれをとりまく社会に向き合うことです。そうしたなかで、「虚実」について考えることは、自分自身の価値観や欲望、社会通念や常識を疑い、能動的に自らの現実を築いていくための態度を鍛え、また、他者にとっての現実を想像し受容する原動力になるのではないでしょうか。

嘘と本当、フィクションとリアリティ、イメージと実体、バーチャルとフィジカル、心と体、形而上と形而下……。

虚と実を二項対立で考えるのではなく、混ざり合い作用し合う“化合物”と捉えながら、不確かで多様な現実やもののあり方についての様々な視点を投げかけます。

『広告』編集長 小野直紀

小野 直紀 (おの なおき)
『広告』編集長。クリエイティブディレクター/プロダクトデザイナー。2008年博報堂に入社後、空間デザイナー、コピーライターを経てプロダクト開発に特化したクリエイティブチーム「monom(モノム)」を設立。社外では家具や照明、インテリアのデザインを行うデザインスタジオ「YOY(ヨイ)」を主宰。文化庁メディア芸術祭 優秀賞、グッドデザイン賞 グッドデザイン・ベスト100、日本空間デザイン賞 金賞ほか受賞多数。2019年より博報堂が発行する雑誌『広告』の編集長を務める。Twitter:@ononaoki

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この記事は2022年3月1日発売予定の雑誌『広告』虚実特集号の巻頭メッセージです。『広告』虚実特集号は全国の書店およびAmazonで予約販売中です。

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