「文化」をいかに体現するか 〜 『広告』文化特集号のデザイン秘話
グラフィックデザイナー 上西 祐理 × 加瀬透 × 牧寿次郎
『広告』文化特集号イベントレポート
「文化」をデザインとメッセージで体現する
小野:今回のトークイベントのテーマは「『文化』をいかに体現するか」。文化特集号が完成するまで様々な試行錯誤を重ねたのですが、その背景を上西さん、加瀬さん、牧さんとともにお話ししていきたいと思います。
最初にデザインの打ち合わせをした2022年5月13日から発売前の2023年3月23日まで、打ち合わせ回数は全部で38回。赤い表紙にするという結論にいたったのは2022年11月28日で、それまでにも26回の打ち合わせを行なってきました。1回の打ち合わせが長いときで5〜6時間、短くて2〜3時間でしたので、平均4時間としても合計100時間以上、議論をしていたことになります。
上西さん、加瀬さん、牧さんは、紆余曲折あり、迷走ありであったこの文化特集号に携わり、どのような感想を抱かれましたか?
上西:私たちの打ち合わせは、雲をつかむようなディスカッションから始まり、途中いろいろと寄り道、回り道しながらもかなり長い期間かけて議論し、最後のほうになってやっと具体に落とし込むという、なかなかほかの仕事ではできない時間の使い方をしながら進みます。リニューアル2号目の著作特集号や3号目の流通特集号は、テーマが捉えやすかったので途中アイデアがたくさん出ましたし、比較的デザインに落とし込みやすかったと感じていますが、今回の「文化」はあまりに大きく、概念的なテーマになるため、とても難しかったです。
文化は、人間のあらゆる営み、生活や思考に至るまで、すべてに関与していると言えます。そんな文化をどうかたちにすればよいのか、案は出てもいまいち決め手に欠けるまま、ずっと話し合っていた記憶があります。小野さんに「もう決めないとヤバイ」とお尻を叩かれながら、ようやく赤い本というデザインにおさまっていったのかなと。
小野:確かにギリギリのギリギリまで粘りましたね(笑)。
上西:初期の段階から、文庫本という案自体は出ていたんですよね。合本にしてみようとか、辞書のようなデザインはどうだろうとか、本のあり方をいろいろと模索していました。だけど単に本をそのカタチにするだけでは、文化を「表現しただけ」になってしまいます。本を受け取った人にさらに、文化について考えてもらう契機になったり、気づきをもたらすといったところまで『広告』ではやりたい。本自体がどのような造本で、それがどのように存在したら装置としても機能するのか、すごく悩みました。
小野:牧さんは打ち合わせを重ねていた頃のこと、覚えていますか?
牧:あんまり覚えていないんですけど、赤いグラデーションの表紙に落ち着くまでが大変でしたね。いまでもまだこれが正解だったのかわからないくらい、文化というテーマは難しかった。上西さんが言ってた合本というのは、文化の多様性に着目したもので、1記事ごとに異なった印刷や綴じ方をしたものを1冊にまとめるという案ですね。ほかにも、発行部数すべてが1冊ずつ異なる装丁という案もありました。
小野:加瀬さんはいかがですか?
加瀬:前号の虚実特集号ではアイデアがたくさん出たんです。虚対実もしくは実対虚、といったように概念的な対立が特集のワードのなかに含まれていたので、短絡的かもしれませんが、ある意味考えやすかったということがあったと思います。なのでアイデアも会議のなかでもたくさん出ました。しかし、今号のテーマである文化は、前号のように対立という方法がはまらないということがあったので難しかったのだと思います。まずは、文化というワードをどうひも解くかというところがとても長かったし、最後までその解釈の仕方で悩んでいたと思います。
上西:とくに文化特集号では、打ち合わせのなかでおもしろい話がたくさんありました。最終的には赤い色の表紙に落ち着きましたが、ここにたどり着くきっかけとなったキーワードは、いろいろ出ていたなと思います。
文化の全体像をひも解き、議論を重ねていく
小野:具体的なデザインのイメージの話に入ったのは11月頃。それまでは文化について考えながら、手を動かすというよりずっと話をしていた気がします。最初のほうは、どのような問題提起をするべきか、という話し合いですね。並行して僕自身も勉強を続け、文化の全体像を形成する要素を記載した図をつくりました。
文化とは社会の成員によって獲得されたあらゆる慣習の複合体であるという文化人類学的な意味の文化、理性を重視する文明と感性を重視する文化の対比、特定の時代や地域における価値観、「culture」と英語にすれば「教養」という意味も含まれているなど、論点はたくさんありました。そんななか、どこからが文化なのか、という話題も出て。
加瀬:脱線するかもしれませんが、こんな雑談をしましたよね。以前、僕がテレビ番組か何かで見た、「フリースタイルノートブック」という競技を考えた方の話です。フリースタイルノートブックの競技人口は発案者である彼ひとり。アナウンサーの方が「これはスポーツなのですか?」と質問をすると、「僕にとってはスポーツです。競技者は僕だけですから、僕が決めていいんです」というようなことを答えていらっしゃったのが印象に残っていました。フリースタイルノートブックという競技をひとつの文化のかたちとするならば、文化はひとりでも可能なのか? みたいなかなりざっくりした話だったかと思います。
上西:このとき、ある程度の認知を共有できて初めて文化になるのではないか? と議論しましたよね。そのときの最小人数は何人になるのか、人間が社会を築くからこそ文化を共有できるのではないか、など。
また文明は進歩を前提とする反面、文化は必ずしも前進を前提とはしないといった文明と文化の違いや、考古学的な視点から捉える民俗学や文化人類学的な意味での文化、現代社会において「カルチャー」と呼ばれる細分化された文化圏的な意味など、小野さんのつくった図をひとつずつ整理しながら、「文化」が包含する様々な意味をひも解いていく議論も、とてもおもしろかったです。
装丁を通じて自己目的な文化のあり方を問う
小野:9月には、そろそろまとめていかないとヤバそうだなと、思いはじめていました。その頃のメモを見返すと、「1冊買ったら、もう1冊プレゼント」、「2冊セットにして、1冊をプレゼント」という風に、伝播性を考えた提案はどうかというアイデアが出ています。加瀬さんからは、「1冊を2つにちぎり、片方を渡せるようにする」といった案もありましたね。
またメモには「廃棄されている雑誌を再生紙にして活用する」とも書かれています。文化のひとつである本を利用し、文化を特集する本をつくる、といった意味合いでこのアイデアが出たのかなと思うのですが、どうしてこの案はなくなったんでしたっけ?
加瀬:結果的にエコやリサイクルのようなテーマに回収されそうだよね、といった話になったんだと思います。
小野:そうでした。あとは「売らない」というアイデア。手持ちの本と交換するのはどうか、とか。加瀬さんから出た、指紋がついている本の案もよく覚えています。
加瀬:人の営為の痕跡のメタファーとしての指紋、というような考えでした。
小野:中身がある本と中身がない本の2冊を出版しようという話もありましたね。本を買っても読まない人はいるわけで、だからいっそ記事が書かれていない外側だけの本と、きちんと記事が書かれている本をつくろうと。あとは記事ごとに販売しようとか、すべて違う装丁の本にしようという、最終的な本のデザインに近い話もありました。様々な案が出てはいたものの、9月の時点ではまだ着地点が見つけられずにいたんです。
上西:「本って本だな」というキーワードについても、1カ月くらい時間をかけて話し合った気がします。
加瀬:小野さんが岡潔の話をしていて、「『本って本だな』と思えるような本がつくれたらいいな」と話していて。
牧:そういえば「本だな」で思い出したけど「本棚」の案もありましたね。各記事の参考文献や関連書籍と文化特集号をひとつの本棚に収めて、その本棚ごと本屋に置いてもらう、というものです。ほかにも、本が集まっている本屋という場所自体が文化的なので、文化特集号を買うまでの間に本屋を歩き回って、ほかの本を手に取ってもらえるように誘導して、大きな意味での読書体験を豊かにする、という案も。
小野:岡潔の話をすると、文化特集号の最後の記事「142 イメージは考える」の締めの文章は、彼の著書『春宵十話』から抜粋しているんです。
スミレは咲いていること自体が目的であって、何かの手段で咲いているわけではない。それを岡潔は自身に当てはめて語っているわけですが、この自己目的な文化のあり方を問いたいと考えたんです。
文化を手段とするならば、日本の漫画やアニメを輸出する動きや文化財を観光名所にする、といった捉え方になります。しかしそうすると経済効果はいくらか、何万人観光客が呼べるのか、という話になりますよね。それだと文化の本質が語られにくくなってしまう。その点を問題提起できるのではないかと思ったんです。
本は本であること自体がすごい。「本は本だな」の本である。文化が何のために存在しているのかを問うのではなくて、ただそこにあるのが文化なんだと。われわれがものをつくる意義は問題解決に回収されがちな時代ですが、ものをつくること自体が目的だと言えないかなと、考えていた時期だったんですよ。
突破口となった「エッセンシャル」というキーワード
小野:結局9月、10月を過ぎても具体的な方向性がまとまらないまま11月に入ってしまい、本格的に焦りが出てきました。
上西:ああでもない、こうでもないと話し合いを続けるなかで、「エッセンシャル」というキーワードが出たんですよね。物理的に人間が生存するだけならば、空気、水、食料さえあればいい。だけどそれだけでは心は満たされない。人間的に豊かに生きるということは難しいのではないでしょうか。食事ひとつにしても栄養素を摂取するためだけのものではなく、美味しさを意識した創意工夫が凝らされ多様に発展しています。文化は人間が人間らしく生きるために必要な、エッセンシャルな要素。そのキーワードを得て、やっと活路が見出せる予感が広がっていった気がします。このときに出たアイデアのひとつが水案です。
小野:水案が出たのが11月9日。具体的な装丁のかたちを模索し、けっこう粘って考えましたね。
上西:ようやく手を動かしはじめた時期だったと思います。
加瀬:文化を直接表象するのは難しいので、エッセンシャルのようなキーワードをテーマと装丁の間にかませようといったような話になったんだと思います。文化→キーワード(エッセンシャル)→装丁、みたいな。
牧:なぜ水案はなくなったんでしたっけ?
小野:僕のほうで製本会社やパウチの会社への相談を進め、実現の可能性を並行して探っていたのですが、みんなどこかで「本当に水案でいいのか」と引っかかったのだと思います。水案が出た瞬間は「いいかもしれない」と思ったものの、時間が経つに連れ「違うのではないか」という空気が漂っていたような気がしますね。
上西:うまくいかなさそうだったんですよね。水のなかに本を入れてみたらどうかとか、水と本をセットで売るのはどうかなどの案が出ていましたが、水と本がうまく融合しなかったんです。水も本も人間が人間らしく生きるのに必要不可欠なもの、という意味での水案なのに、水がモチーフとして使われているだけで、題材止まりになってしまっているというか。そうだ、文化ってエッセンシャルだよねという気づきや驚きにも届かない。それはわれわれがやりたいことと違うよねと。
水案はやめようという流れになったのち、猿が持つバナナはただの食料であるから、バナナと本のどちらを取るか、という話にもなりました。その後、牧さんが「血液」という案を出してくれて。
牧:輸血用の血液バッグのなかに赤い本を入れる、というものでした。血液もまた、人間の生命維持に不可欠です。体内を巡り、親から子、先祖から子孫へと受け継がれるイメージも、文化の伝播性に近しい。ただ結局は血液も違うよね、となった。
小野:椎名林檎みが強いって(笑)。
牧:(笑)。
上西:本物の血液パックを使用できるのならまだしも、イミテーションになるのなら意味がないし、この案もモチーフに引っ張られすぎているのではと。
現体制の『広告』の打ち合わせでは、誰かひとりでも難色を示すとアイデアが消えていきます。みんなの「これならOK」という集積により、決まっていく。あとは過剰性を嫌う傾向がありますね。やりすぎ感のある案は避ける。その結果、全5冊を通じて削ぎ落とされたデザインになったのも、おもしろいところなんですけど。
そういえば小野さんから「日の丸もいいんじゃない?」という提案がありましたよね。
小野:基本的に日の丸はナショナリズム的なものだと思っています。僕らが日の丸を大事に思う気持ちは政治的につくられた側面がある。そのバイアスに自覚的になろうという意図を込めて、日の丸で覆われた本にして、その覆いを破って開ける装丁はどうかと提案したら、上西さんが猛反対をして(笑)。
上西:ちょっと限定的すぎるんじゃないかと思ったんです。でも小野さんはけっこう日の丸案を推していて、「いい案を出さないと、日の丸にするよ」という勢いでしたね(笑)。
小野:(笑)。ほかにも、エッセンシャルというキーワードが出ていたので、人間が根源的に必要とする要素について考えたりもしました。「肉」や「皮膚」をまとわせる案もありました。
あと先ほど上西さんが言っていた、バナナと本をいっしょに出すのもいいんじゃないかなと思ったのですが、牧さんと加瀬さんが一切反応しなくて(笑)。
上西:小野さんがつくってくれた、バナナと本のイメージ画像がおもしろいなと思ったんです。でもないよねって(笑)。
小野:人間は文化をつくり、猿は文化をつくらないとして、あなたはどちらですかという問いかけをしようとしたんです。
上西:食べ物とセットで売るという話が出たとき、本が本屋ではないところで売られていたらどうか、という議論もしました。
小野:八百屋さんで売るのはどうかという話ですよね。毎日に欠かせない食べ物といっしょに売るという。あと、かたちが似ているのでパンと本、日本人の食文化に根づいた米と本、といった話もありました。あと「石板」のアイデアも。
上西:石板はけっこう好きな案でした。文字で記録し、それらが紡がれて伝わってきた歴史的背景があるので。最古の記録媒体として、石板は悪くないなと思ったんです。
「赤」の表紙にたどり着いた背景
小野:このような議論をしていたのはすでに11月に入っていましたから、アイデアが出るたびにイメージ画像をつくり、みんなに共有していました。
上西:思いつきのようなアイデアであっても、小野さんが画像をつくってくれたんです。
牧:小野GPT(笑)。
小野:このままだと本が発売できないと、めちゃくちゃ焦っていたので(笑)。それで、11月28日に赤い本の案が出たんですよね。
上西:打ち合わせで、現体制の『広告』を1号目から4号目まで並べてみたときですね。そのときには、サイズは文庫本サイズにしようというのだけは決まっていました。
加瀬:岩波文庫の巻末にある「読書子に寄す─岩波文庫発刊に際して─」も、文庫本サイズに決まった理由のひとつだったように思います。文庫本という形態が果たす、知を伝搬していく役割は大きいよねと。それで僕は文庫本サイズに納得した覚えがあるので。
小野:文庫本サイズのアイデアはすでに出ていたけれど、最終的に決定したのは11月21日でした。
上西:虚実特集号を制作しているときから、文化特集号は文庫本サイズかもねっていう話はしていたんですよね。現体制の『広告』は毎号、判型を変えているけれど、これまで文庫本サイズは採用していなかったし、文化というテーマにも合いそうだねって。
文庫本が持つ意味や与える印象を踏まえながら、どういう文庫本だったら文化特集号にマッチするんだろうと並べられた既刊号を見ながら考えていたなかで、「赤」が浮かんだ記憶があります。
加瀬:上西さんが唐突に「赤」と言ったことは覚えています。そこで仮に「赤」を軸に設定した場合で会議したんです。その際に、赤という色をとおして、いくつも文化の切り口が考えられるかもという話になり、「赤」案の方向性が強まっていったのかなと。
小野:文庫本サイズの場合、1,000ページくらいになるので、試しにつくってみようと、1,000ページ以上ある京極夏彦さんの小説『魍魎の匣』(講談社)に赤い表紙をかぶせてみたんです。そしたら、なんかしっくりくるね、となったんですよね。そこから「なぜ赤がいいのか」と、議論を始めました。
上西:前に血液バッグ案のイメージ画像を小野さんがつくってくれていたので、それもなんとなく残っていたんだと思います。それに血液案も、日の丸案も、やはり赤が印象的なので、すべて集約できそうだねという話になりました。
あと、その前に虹の話をしていたんですよね。虹は国によって表現する色の数が異なります。日本は7色だけど、6色の国も5色の国もある。国によって色の定義が変わることも、各国の文化なのではないかって。
小野:そうですね。同じものを見ているはずなのに違う捉え方をするのも文化だ、という話をしました。月もそうです。日本人では月の模様をうさぎの餅つきに見立てますが、別の見立てをする国も多い。この考え方を赤に置き換えると、赤に対して抱く感情の範囲や認識する色の幅も違ってきます。
上西:赤い色から想起される意味は人によって異なりますし、一人ひとりが赤に対する多様な印象を持っていますよね。しかしこの段階ではまだ、赤に確定できない弱さがありました。
加瀬:それで、上西さんからだったか、赤い色についてのリサーチを世界中で行なえたらよくない? みたいな話が出たんだと思います。
上西:データがないと、机上の空論になってしまう懸念がありました。日本という同じ文化圏に住んでいるわれわれですら赤に持つイメージや解釈は変わってくるので、世界中の方に聞けばより赤が持つ多様な意味が出てくる、そこに文化があるのではと。
牧:赤くて分厚い文庫本、という装丁をゴールとして仮固定して、そこにどう文脈づけて成立させるかを考える。最後は力技でしたね。
小野:ずっと停滞していましたが、11月28日にすべてが決まりました。これまで『広告』がやってきたことを振り返ると、価値特集号は分厚い雑誌を1円で販売し、著作特集号ではオリジナル版とコピー版を制作、流通特集号では表紙に書店ごとに異なる流通経路を記載し、虚実特集号ではあたかも白い本であるような画像を発売前に展開させました。つまり内容や装丁といった本の内側にあるものと、価格や海賊版、流通経路や告知画像など、本の外側にあるものを合わせて提示していたんです。
文化特集号では「赤から想起するもの世界100カ国調査」を実施して、12,000人の回答を集めました。各国における赤に込められた意味の差異や共通性を可視化しながら販売を行なうことで、「意味を共有するインフラ」としての文化とその背景にある風土、伝統、宗教、思想などについての見識を深める入り口になるのではないかと。この方向性ならうまくいくかもしれないと、みんなが腑に落ちた感じだったかなと思います。
「赤から想起するもの世界100カ国調査」の結果は専用のウェブサイトに、1冊ごとに赤の色味が異なる表紙の装丁に込めた思いについては『広告』のnoteで公開していますので、そちらもぜひご覧いただけると嬉しいです。
『広告』は「表現だけ」をしない
小野:さて、ここからは会場にいる方々からの質疑応答の時間に移りたいなと思います。何かご質問はありますか?
来場者:小野さんに質問です。編集長として、原稿のディスカッションとデザインのディスカッションのそれぞれを、どういう風に行ったり来たりしながら制作をされているのでしょうか?
小野:まずデザインチームとは、先ほど上西さん、加瀬さん、牧さんとお話しさせていただいた内容のようなことを、100時間以上かけて議論を深めてきました。企画や原稿のディスカッションも、2022年4月頃からデザインチームとの打ち合わせと同時並行で行なっています。
編集部のみんなには、リサーチを主にお願いしていました。指定した本を読んでもらったり、文化に関する基本的な考え方を調べて教えてもらうなどして、僕のインプット量を増やしていったんです。具体的な記事の企画は僕の方で立案し、デザインチームと雑談するように、企画ごとの執筆者や編集者と1対1でディスカッションをしながら進めていく感じですね。
来場者:デザインチームのみなさんは、『広告』を制作されるなかで、「小野さんはやはりプロダクトデザイナーだな」と感じることはありましたか?
牧:ありましたね。先ほどお話ししたとおり、デザインチームが言葉で伝えたアイデアを、小野さんはすぐにプロトタイプやイメージ写真をつくって見せてくれるのですが、きっとプロダクトデザイナーとして習慣化されていることなんだろうなと思います。
上西:本もひとつのプロダクトですよね。だからものとしての美しいあり方に対してや、ディテールについてなど、小野さんのこだわりを感じる場面は多かったです。とくに流通特集号の装丁は「段ボール装」だったので、小野さんの力の大きさを感じました。剥く部分のピッチや組み立ての構造など、ならではの着眼点があって。
現体制の『広告』は、牧さん、加瀬さん、私と、複数のデザイナーが携わっています。だからこそ言葉をとおして共有するプロセスを、すごく丁寧に行なっていったんですね。小野さんの言語化能力の高さを垣間見るところもたくさんありました。
牧:あと、広告業界で培ってきた技術を駆使している印象も強かったです。
上西:小野さんはすごく粘るし自分自身でも動く。ギリギリまで諦めず、最後までやりきる。それは小野さんがプロダクトデザイナーであることはもちろん、小野さん個人の性格的な部分も大きいなと感じました。
牧:理想を実現しようとする小野さんの執念。
来場者:1970年代に「消費社会」という概念を提示したフランスの思想家ジャン・ボードリヤールのように、ものやサービスはイメージを伝達するための記号に過ぎないといった批判があります。個人的には本の表面の質感や本を開いたときに漂うインクの香りなど、ものに対して感覚的に感じる心地よさも大事だなと感じていて、最終的にそこへ原点回帰するのではないかと思っています。広告に携わるみなさんは、消費社会の批判などをどのように受け止めているのでしょうか?
上西:消費社会への疑問は広告会社に入社する前から抱いていましたが、私はなにより、ものが持つ以上の価値をデザインで演出できてしまうことへの恐怖がとても大きい。それは広告会社で働いていようがいなかろうが、デザイナーってそういうことができてしまうんです。ものの本質的な価値以上によく見せてしまうかもしれないという罪に加担したくない、嘘はつきたくないと思って制作活動を続けてはいるのですが、適切な答えに導けているのか毎回自問自答しながら仕事をしています。しかし広告のよい面もたしかにあって、多くの人に声を届けることもできる。
その功罪に対しモヤモヤしているときに、小野さんから『広告』に声をかけてもらいました。広告の仕事とも少し距離がある雑誌をつくるという仕事で、でも広告会社である博報堂が出版している『広告』というメディアで、広告にまつわる特集テーマについて考え、ひいてはものづくりについても見つめ直していく。いろいろとずっと考えていますが、結局のところデザインは社会活動・経済活動のなかで周っているので、この葛藤はなくならないし、向き合いながら真摯にやっていくのが大切なのかなと日々感じています。
本当は2年で終わるはずだった現体制の『広告』は、気がつけば5年の年月が流れていました。文化特集号の打ち合わせにかけた時間だけで約200時間。決定者が4人いるこの仕事の進め方は、単純に時間で割るとすごく非効率です。経済活動のセオリーとは一線を画す進め方をでき、それは豊かな仕事だとも言えますし、いい時間を持ててありがたかったです。
牧:現体制の『広告』では小野さんと上西さんの広告に対する様々な知見や技術の存在が大きい。僕と加瀬くんは、広告業界の外側からの批判的な視線を投げかける、という役目があったと思います。それがどこまで果たせていたかはわからないですが。
加瀬:僕は、それまでの人生経験から広告会社にあまりいいイメージを持てずにいましたが、小野さんや上西さんと5年間ご一緒したことで、広告会社に勤める方々の考え方を改めて学べたのかなと。
消費社会、ひいては資本主義について述べると、資本主義はすべてを消費の対象としていくシステムだと思います。このシステムから逃避していくことは現状なかなか難しいので、そんな前提条件の世の中で何がつくれるか、という意識で活動していくしかないのかなと思ったりしています。
小野:僕は文化特集号の冒頭に、「『文化』に向き合うことは、『ものをつくること』を肯定すること」と書きました。なぜかというと、文化に限った話ではありませんが、ものをつくることがネガティブな時代になったなと思っているんです。でも僕はものをつくること自体を目的的に捉えて、つくりたいからつくっている。とはいえ僕がつくったものは、社会に対してなんらかの影響を与えています。それで文化を考えることで、ものづくりを肯定しうるヒントが得られるのではないかと考えました。
文化特集号の「108 文化とculture」で、吉見俊哉さんは「cultureはカウンター性がある」と仰っています。ある文化が生まれ、その文化に対する反抗としてまた別のカルチャーが生まれる。わかりやすいカウンターカルチャーの例は、ヒッピー文化ですね。
そもそも文化は批判性を内包しています。カウンター性とはある種の批判性。批判を繰り返すのが文化の特性である一方で、批判を受け止めたうえで何がつくれるかを考えることも文化だと思っているんですよ。なのでものをつくるうえで、どう自己批判をするかが重要なんです。
『広告』の場合、われわれ4人はお互いに批判的な発言はあまりしませんでしたが、「肯定をしない」ことはよくありました。それが批判に近い態度だったんだと思います。『広告』の制作の過程には、つくり手自身が自己批判を繰り返しながらつくっている感じがありました。こういったもののつくり方はとても大切で、「あなたたちはこういうものが欲しいんでしょ。こういう風にしたら買ってくれるんでしょ」というつくり方は、記号消費に加担するものになりやすい。記号消費をあおるものづくりは、少なくとも現代における文化的な態度ではないと思っていて、そのブレーキを踏む役割を果たすのが批判的な態度です。
そうしたことを記号消費の象徴的プレイヤーである広告会社のなかで行なうのはおもしろいと感じているんです。そのモデルケースが、現体制での『広告』だったのかもしれません。
来場者:今回のトークイベントのなかで「表現にしかならない」といったワードが出ていたかと思いますが、デザインにおいて足りないものとは何であるとお考えですか?
小野:僕は表現だけのものを悪いと言っているわけではなく、『広告』においては「“表現だけ”をしない」という意味です。たとえば価値特集号では、「1円で販売する」ことを抜きに、箔押しをした銀色の表紙という装丁だけで見ても、「価値のゆらぎを表現したデザインです」と言えなくもない。それは、一般的には高級感を出すために行なわれるのに、あえてムラや斑点が出るように箔押しをすることで、その高級感が削がれるからです。でも、こうした表現だけのデザインでは、その意図を深く読み取ろうとする人にしか「価値のゆらぎ」を伝えきれないと思ったんですね。
そこで全680ページの分厚い本に1円という価格をつけることで、価値と価格の非対称性を訴えました。こうした仕掛けと装丁での表現が合わさった本のあり方、『広告』で体現したいと思ったんです。
加瀬:小野さんは「問題提起があるべき」という話を度々していました。見ためだけが取り繕われていても、そこに問題提起が含まれていないと雑誌『広告』においてはよくない状態だから、というような話をしていました。
上西:多くの人にコミュニケーションをとっていこうという思いや、本の存在そのものから見直してみるといった実験的な姿勢などのために、設定された軸だったのかなと思っています。
小野:最後の文化特集号については、問題提起というよりも、1冊1冊異なる赤や世界100カ国調査をとおして「文化」について考えるツールを提供するという意味合いが強かったかもしれません。それではそろそろ、今回のトークイベントを終了したいと思います。本日はありがとうございました。
文:大森 菜央
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