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77 「ことば」と流通 〜 劇作家・小説家 本谷有希子 インタビュー

いま世の中でいちばんつくられているプロダクトは、「ことば」かもしれない。人々が「消費者」から「生活者」となり、「生産者」の側面が大きくなっている。その生産されるもののひとつに「ことば」がある。全員が「ことば」の生産者であり、生産管理者である1億総生産者時代だ。

生活者がつくりだした「ことば」は、テレビ、新聞、雑誌、書籍、SNSなど様々な「流通」にのって同じ生活者に届けられている。

筆者はコピーライターとして仕事をしているのだが、新聞のコピーならこうしたほうがとか、テレビのコピーならこうしたほうが、とつねに「流通」を意識する。「流通」を考える=「ことば」の届き方を考えることになる。情報過多時代という、「ことば」が氾濫している時代に、「ことば」の届け方をどう考えていけばいいのか。その手かがりをつかむために、劇作家や小説家として活躍されている本谷有希子さんに話を聞いてみることにした。


「ことば」の検品

── 『幸せ最高ありがとうマジで!』『生きてるだけで、愛。』『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。とても印象的なタイトルワークですよね。タイトルって世の中に広がっていく「ことば」のひとつだと思うんです。書棚のなかで、いかにほかの競合他書と差別化するか、多数の演劇フライヤーのなかでいかに目立つか。つくり手にとって、タイトルワークは、生存戦略でもあると思いますがいかがですか。

本谷:実は、タイトルを考えること自体は苦手なんです(笑)。だから小説の場合はいちばん最後まで残しておく作業ですね。でも、演劇の場合はまずチラシをつくらなきゃいけないので、内容の前にまずタイトルを考えます。

タイトルのつけ方は決まった手法や形式があるわけじゃなくて、毎回違います。初期の頃は、どちらかというと霊感的な感じで……意味としては自分でもよくわからないものを好んで採用したりしていました。

たとえば、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』は、19歳のときに初めて書いた戯曲なんですけど、タイトルを考えるために書店をウロウロしながら、いろいろな本のタイトルを見て回ったんです。タイトルの海のなかを歩いていて、ふと“命令調”が人々に刺さるんじゃないか、と。理由ははっきりしませんが、なんとなくそういうものを求められているような気がして。でも、よく考えると昔よりいまのほうが、無意識から引っ張り出すという意味で、よほど霊感的かもしれません。

── 僕としては感性と論理の間でいつも揺れていて、どう判断を下すかがつねに課題なんですが、本谷さんは感性や霊感に従っているんですね。一方で、本谷さんのタイトルワークには、世に出していいものかの品質確認、「検品」がなされていると感じました。その意識がかなり早い段階からあったんですか?

本谷:20歳で劇団を旗揚げして主宰になって、どういう「ことば」を使ったら人が注目してくれるか、自分の売りは何なのか、ということについては自分なりにひとしきり考えましたね。そのなかで、ひとつの私の型として、とにかく生意気そうな「ことば」を使うっていう(笑)やり方を、初期は試していましたね。わざと反感を買うような「ことば」を並べるんです。

── 攻撃的だったり、挑戦的なタイトルが多いですよね。

本谷:当時はまだ女性の作演出家が稀有(けう)だったので、「20歳で劇団つくっただって? どれどれ観てやろうか」、と来られるお客さんがけっこう多かったんですよ。それで啓蒙的なタイトルより、喧嘩売ってるタイトルのほうがいいんじゃないかと考えました。これ嫌な感じがするよね、とか、これ腹立つよね、と選んでいた感じがしますね(笑)。

作品の内容、というよりは、まだ誰にも認知されていない自分の芝居の世界観を象徴するような「ことば」を意識はしていました。初期は攻撃的な芝居しかつくってなかったのですが、だんだん攻撃するだけじゃちょっとつまんなくなって、バリエーションをつけようと思ったのが、『幸せ最高ありがとうマジで!』。ポジティブな「ことば」しか使わないことで別の意味を匂わせることもできるんじゃないか、と。工夫して、喧嘩を仕掛けるようになっていましたね(笑)。とにかく、受け取った人の心がざわつくような「ことば」を、意識的に心がけていました。

── 刺激を求めに観に行ったような記憶が僕にもあります。完全に術中にはまっていました(笑)。

本谷:そういう印象が伝わればいいと思って、普通だったらタイトルにつけない、ちょっと逸脱したものをあえて選んだりとかはしてましたね。

── コピーライターとして仕事をしていると、どのくらいの人に伝わる「ことば」なのか、その最大公約数を探ることを問われることも多いんです。でも、最大公約数的な「ことば」は、スルーされる「ことば」になる危険性を孕(はら)んでいます。いわゆる手垢のついた「ことば」ですね。

最近ではデジタル時代の手触りをどうつくるかが、「ことば」を考えるうえでも大事なんじゃないかと考えていて、目指しているのは、ゴロッとした、ざらっとした、そういう手触りのある「ことば」です。身体的な感覚があったほうが、情報として残るものになるんじゃないかと思うんですよね。

本谷さんにとって、おびただしい情報量のなかでも、埋もれない「ことば」ってどういうものですか? また、そのとき注意すべきことは何でしょうか?

本谷:「この『ことば』だったら、自分はどう反応するかな」と無意識に考えますね。不特定多数が相手とは考えず、自分か、顔のわかる身近な人の反応をイメージするようにしています。本の帯文の案のなかに「泣ける」とあると、ほんとにこれいるの? って思うんです。でも「こうやってラベリングしないと、人は手に取らないんですよ」と編集者さんから言われることもあります。「これはこういう話です」と帯は、とくにジャンルを特定したがりますよね。

あとは、自分のなかで基準があるとしたら、下品な「ことば」か、下品じゃない「ことば」か、の線引きがありますね(笑)。キャッチーなフレーズって、確かにインパクトや刺激があるし、人は手に取る……でもなりふり構ってなくて、下品だよねって感覚がうっすらあるじゃないですか(笑)。同じ効果がありながら品性のある「ことば」に置き換える作業をします。でも品がよくなるとインパクトがやっぱりなくなるので、塩梅というか、さじ加減はあるんですけど。

── たとえばどんなやりとりがあったんですか?

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