136 京都の文化的権威は、いかに創られたか
「京都は日本の文化を代表している」というイメージは、国内のみならず国際的にも受け入れられている。京都市は「世界が憧れる観光文化都市」を標榜し、「京都が日本の財産、世界の宝であることをアピールする」京都創生PRポスター「日本に、京都があってよかった。」を2007年から発表している。
筆者は、京都に暮らして20年以上になるが、このまちをPRするポスターを見るたびにもやもやしてしまう。かつて天皇が住む「みやこ」であったにしても、いまは日本の首都ではなく、いわば一地方都市に過ぎない。確かに、国宝や重要文化財は数あるが、それらをもって「日本の財産、世界の宝」とまで言い切るスタンスにはずっと違和感があった。だからこそ、あらためて「京都の文化的権威」と向き合ってみたいと思った。
このテーマを考えるにあたり、歴史学者の高木博志・京都大学人文科学研究所教授に取材を実施。高木氏は、近世と近代の天皇制のあり方の違いを研究し、「古都の近代」を政治文化論として考察する編著書を多数執筆されている。本稿では、高木氏の議論を軸に、主に近代以降において、京都の文化的権威がどのように創られ、利用されてきたのかをひも解いていく。
京都の虚像と実像を問い直す
「鳴くよウグイス平安京」──年号暗記のために口ずさまれるように、桓武天皇による平安遷都は794年(延暦13年)だ。以来、平清盛による半年間の福原京遷都をのぞいて、1869年(明治2年)まで千年以上にわたり日本の“首都”であり続けたとされる。しかし、朝廷の実権は鎌倉・室町時代を経て武士に奪われてゆき、1603年(慶長8年)の江戸開府とともに政都は江戸に移る。さらに、17世紀後半の西廻り航路の完成、18世紀前半の堂島の米市場の成立により、経済の中心も天下の台所・大坂に移る。「近世の京都は、江戸、大坂と競い合う三都のひとつであり、主に文化を担う都市に空間的に位置づけられてきた」と高木氏は言う。
京都は数々の戦争や大火によって翻弄されてきた。15世紀後半に11年続いた応仁の乱、宝永の大火(1708年)、幕末の政争のなかで起きた禁門の変(1864年)とそれに伴う火災「どんどん焼け」など、いくたびもの戦災や火災に遭ってきた。つまり、京都市中心部には平安時代の遺構はほぼ残っていない。一方、桓武天皇を奉祀し「平安」の名を冠する平安神宮は、明治28年(1895年)の「平安遷都千百年紀念祭」に創建された“新しい”神社である。近代的な鉄筋コンクリート造の巨大な鳥居から望む、平安京の正庁・朝堂院と南面する門・応天門を縮尺模造した社殿と正門はいかにもレプリカだ。
こういうことを、京都に遊びにきた友人に話すと、「平安神宮は、平安時代からある神社じゃないの?」と意外そうな顔になる。彼女/彼らが抱いている「古都・京都」のイメージに合わないのだろう。ちょっとした拒否反応もある。京都に望むのは、あくまで歴史と伝統がある「本物」なのに、「あれはレプリカだよ」などと言われると、ひどく興醒めするのだろう。
では、観光客が抱く愛すべき京都のイメージは、いつどのように形成されたのだろう。あるいは、京都はいつから望まれる「古都」を演じるようになったのだろうか。その背景には、日本が歩んだ近代化への道が大きくかかわっている。
新政府に否定された京都の歴史と伝統
江戸時代から、京都はすでに人気の観光都市で、寺社や名勝を取り上げた観光案内書『京童』や挿絵入りガイドブック『都名所図会』なども出版されていた。いまと大きく違うのは、天皇という存在が観光の対象だったことだろうか。観光とは、天皇や公家という「光」を観ることでもあった。
「17世紀後半から18世紀にかけて、いわゆる京風文化が成立します。京焼・京菓子・京人形や京学・京医・京踊・京言葉などを売り物にした京都観光が盛んになりましたが、最大の目玉は御所に参内する公家がとおる宜秋門の周辺で宮中に参内する公家を見物することでした」
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