見出し画像

117 「文化のインフラ」としてのミニシアターが向かう先

1970年代後半に現れた日本独自の小規模映画館、ミニシアター。大手の映画館で上映される商業的な映画に対して、作家性を帯びた作品や知られざる世界中の名作の受け皿となり、映画の多様性を育む重要な「文化のインフラ」としての機能を担ってきた。「ミニシアター」とは呼称であり明確な定義はないが、大手の直接の影響下にない映画館を指し、「単館系」とも呼ばれる。元来DIY的側面が強く、各館それぞれが独自の魅力を持っている。

そんなミニシアターの多くが、いま窮地に立たされている。コロナ禍によって入場規制や休館などが相次ぎ、2022年7月末には元祖である神保町・岩波ホールが閉館した。本稿では、ブームを牽引したミニシアターのひとつ渋谷・円山町のユーロスペース支配人・北條誠人氏と横浜・黄金町の老舗ミニシアターであるシネマ・ジャック&ベティ支配人・梶原俊幸氏へ取材を実施。現場を長年見てきたふたりの証言をもとに、ミニシアターが支えてきた映画文化を、今後どう守り残していくのか、その向かう先を考察する。


ミニシアターの成り立ちとブーム

冒頭であげた岩波ホールやユーロスペースは、もともと講演やイベントなどを行なう多目的ホールとして誕生した。’70年代後半から’80年代初期にかけて、そうした多目的ホールで「シネクラブ」と呼ばれる自主上映会が増加。背景には、テレビの普及による映画産業の衰退、それに伴う上映本数の減少があり、欧米などの先進国との映画文化の差が開いていくことに危機感を覚えた人々が主体となっていた。この流れのなかで、常設館の必要性が高まり、日本独自のミニシアターという形式の映画館が誕生した。

特定の関心のもとに映画を上映する「シネクラブ」の延長線上にあることから、ミニシアターではアート性やドキュメンタリー性の強い作品が重視される傾向があり、国内外の作品を発掘・厳選して独自性を打ち出すミニシアターが次々と生まれていった。同時期に札幌、名古屋、大阪など全国に「シネクラブ」運動が波及、各地に同様の形式の常設館が広がっていく。

1981年には、老舗の興行会社であった東急レクリエーションが参入。いわゆるチェーンと呼ばれる大きな劇場を各地に持ち商業作品主体の映画館を運営しながら、そこでは取り上げない作品を上映する新しい興行スタイルの常設館として、新宿・歌舞伎町にシネマスクエアとうきゅうをオープンした。この動きはバブル期の1987年の東宝(現TOHOシネマズ)のシャンテ・シネ(現TOHOシネマズ・シャンテ)開業の時期までつながっていく。その前後には、セゾングループのシネ・ヴィヴァン六本木や東急百貨店のBunkamuraル・シネマなど、商業施設の運営企業によるミニシアターも生まれている。

そして’80〜’90年代にかけてミニシアターブームが起こる。シネマライズ、シネクイント、シネセゾン渋谷といった個性的なミニシアターが渋谷を中心に続々と生まれた。この背景には、バブル経済に向かう日本が手にした富を質に転化するために、文化的教養を高めようとした「文化のインフラを成熟させる」という都市計画があった。シネセゾン渋谷などを保有するセゾングループが描いた「文化の民主化」とも呼べる街づくりの思想とも連動した。
ときを同じくして、音楽分野では、商業的なコンサートホールに対して自主的な運営を行なうライブハウスが登場し、輸入盤を扱う巨大レコード店のオープンが続いた。この流れのなかで’90年代に起こった“渋谷系”ムーブメントは、音楽のみならず映画・コミック・ファッションなどのサブカルチャーがクロスオーバーし、そのブームに拍車をかける。2000年代の頭頃まで、文化発信の拠点としてミニシアターが独自の地位を確立していた時代が確かにあった。

ここから先は

10,573字 / 1画像
この記事のみ ¥ 100

最後までお読みいただきありがとうございます。Twitterにて最新情報つぶやいてます。雑誌『広告』@kohkoku_jp