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85 人はもの自体を認知することはできない 〜 認知科学研究者 渡邊克巳 インタビュー

“もの”は、誰にでも等価に存在しているのではなく、一人ひとりの経験、感じ方、考え方でそのあり方が変わる。そもそも、私たちはものや世界をどう認知しているのだろうか。

人間を含む様々な生物の知覚、記憶、思考のしくみについて心理学や神経科学、計算機科学や哲学など様々な観点からアプローチする総合的な研究分野である認知科学。その専門家である早稲田大学理工学術院教授・渡邊克巳氏へのインタビューをとおして、人がものを認知するときに何が起きているのか、そして、人とものの関係構築のあり方について解き明かす。


ものを「認知できている」という錯覚

「赤いリンゴ」という言葉を聞くと、私たちは頭のなかにぼんやりと赤いリンゴの像を思い浮かべる。もし目の前に赤いリンゴがあれば、そのことを指していると思うだろう。しかし、渡邊氏はものを巡る人間の“錯覚”がそれを「赤いリンゴ」だと認知させているに過ぎないと言う。

「私たちはリンゴを見ているときに『リンゴ』を見ているわけではありません。赤くて、丸くて、食べられるもので──といった、リンゴを構成する情報を感覚器官などにあるレセプター(※1)に入ってきた刺激からピックアップして、それが自分にとってどういうものであるかを推測して把握しています。外界に正解があるのではなく、この世界のなかで生きていくために必要な情報を自分に役立つ形でピックアップしている。人はもの自体を認知することはできないんです」

もの自体を認知することができないというのは、にわかには信じがたい。普段の生活のなかで、私たちは当然ものを認知していると思っており、同じリンゴを見ていれば、他人も同じように認知していると感じている。

「何かを認知していると思っていること自体が錯覚なんです。他人とひとつのリンゴを見ているときに『このリンゴは赤いね』と言ったりしますが、それには『みんな同じものを見ている』という別の錯覚も存在しています。『こういうものがある』と言葉にすることは、『自分はあなたと同じように世界をこういう態度で見ていて、あなたと同じように頭のなかで処理しています』ということを表明しているようなものです。

現実と比較して、インターネット空間やバーチャルリアリティ(以下、VR)の『怖い面』として語られるものに、『見る』と『見られる』が同時に起きているということがあります。事実、画面を覗き込むとき、SNSを見たとき、アバターとなってVR世界に入り込むとき、その情報はほかの誰かから見られています。では、現実は違うのか? 実は同じなのではないかと思っています。

目の前に赤いリンゴがあって、他人も自分も赤いリンゴを見ているとき、『ああ、この人もこの赤いリンゴを見ているんだな』と思っている。言葉にしなくても、この時点ですでに自分のなかの情報が漏れて、世界に対してそう表明しているようなものだと思うんです。古い言葉で言えば『共同幻想』が当てはまるかもしれません。そもそも人は、世界から見られている、もしくは世界に対して『私はそれを見ている』と表明している状態にないと、実際には“見ている”ことにならないのかもしれないですね」

さらに渡邊氏は、「赤い」という表現も、特定の照度や輝度について社会と個人が共有している感覚を表現しているに過ぎないと指摘する。確かに、色は物理現象ではない。そこには光の波長があるだけだ。

「『赤いリンゴがここにある』という発言は、『“赤い”という言葉で表現されるような感覚が世の中で共有されているということを私はわかっている、そのような色のリンゴがここにあるということを私が経験している、それを私は世の中に表明する』という意味ですよね。でも、こんな風にすべてを言葉にして会話していたらわけがわからなくなるので、私たちは省略して話している。

これら複数の錯覚や省略が重なることで、人と人の間でしばしばすれ違いが起き、ときどき大問題に発展することもあるのですが、人類が生まれて意識を持ちはじめてから、ずっとこの方法でやってきたんです」

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