84 虚実と世界 〜 哲学者 清水高志 × 『広告』編集長 小野直紀
情報革命によって生活や社会のあり方が激変したいま、私たちは自分たちが生きる「世界」、そして道具や嗜好品、コンテンツなどのつくられた「もの」をどのように捉えているのだろうか。著書『実在への殺到』(水声社)で新たな哲学の地平を開拓した哲学者・清水高志氏を迎え、「虚実と世界」をテーマに、本誌編集長・小野直紀が素朴な疑問を投げかけながら、人間と世界の関係、人間とものの関係を、現代における哲学的な観点からひも解く。
21世紀に世界の捉え方はどのように変わったのか
小野:清水さんの著書を拝読すると、哲学や思想の世界では、21世紀になって人間と世界、あるいは人間とものの関係の捉え方が大きく変容しているように感じました。
まず、非常に大きな問いから入りますが、清水さんは、人間は世界やものをどのように認識しているとお考えですか。
清水:だいたい世紀の変わりめには、15年くらいかけて新しい思潮の流れや形が出てくるように思います。20世紀から21世紀も、いまおっしゃったように、世界を捉えるビジョンが20世紀のそれとは大きく変わってきています。
小野さんも建築を学んでいたとのことなのでおわかりだと思いますが、哲学やアート、建築は、各時代で連動しているところがあります。たとえば1990年代までのポストモダンの時代には、哲学、建築、人類学、記号論から文芸批評まですべてが連動して、ポストモダニズムを表象していました。それが世紀の変わりめぐらいから明らかに変わってきたんですね。
ただ、哲学という業界は腰が重く、変化するのが遅いんですよ。だから僕は、建築系やアート系、人類学系の人と交流を持ちながら、ずいぶん前からポストモダンのその後を考えてきました。
では、20世紀と21世紀では世界の捉え方がどう違うのか。20世紀までは「客観的で唯一の世界」がまずあって、それに対する何とおりもの解釈を整合していく論争をしていけば、いずれほとんどの人が納得する合理的な「客観」なるものに落着するであろうという世界観でした。ポストモダン的な文化相対論(※1)も、「客観的で唯一の世界」に対して多様な解釈があるというものですから、これらは実は表裏一体なんですね。
こうした世界観にもとづいて、様々な政治制度や経済体制、流通プロセスなどをどんどんグローバル化して多くの人を引き入れていけば、最終的には西洋的な民主化した社会に収斂していくだろうと考えられていたのですが、まったくそうはならないことがだんだんわかってきた。
たとえば、フランスの哲学者で人類学者のブルーノ・ラトゥールは『諸世界の戦争』という著書で、世界自体が多様にあり、すべてを包摂・統合する唯一最大の客観的世界はなく、いま起こっているのはまさに「世界と世界」の戦争なのだという風に述べています。イスラム過激派や、西欧諸国、中国などは、それぞれにまったく違う世界を見ており、また生きているというのです。もともとコウモリと人間とクマでは、まったく違うパースペクティブから世界を見ていて、地球上ではそれらが相互に含み合っているのですが、人間集団同士ですらそうだと言うのです。同じような考え方は、同時多発的にいろいろな文脈から出ています。人類学ではヴィヴェイロス・デ・カストロが、恒常的で不変な「単一の」自然があるという見方を批判し、多自然論(※2)という概念を提出しています。あるいは、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、『なぜ世界は存在しないのか』という著書で、すべてを包摂する唯一の世界はないことを論じ、自らの立場を「新実在論」と呼んでいます。
小野:なるほど。ポストモダンの文化相対主義的な見方といっても、その背後には客観的な自然が前提とされていたわけですね。そういう自然像が21世紀になって崩れ、もはや世界そのものが多なるものとしてあるという見方が、様々な論者から提出されてきたと。素朴な質問ですが、なぜ20世紀の思想は、客観的な世界や自然を前提にしていたんでしょうか。
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