28 権威の崩壊、民意のリスク 〜 批評家 佐々木敦氏インタビュー
映画や音楽の世界では、いまもアカデミー賞やグラミー賞のような権威あるアワードがあり、日本でもレコード大賞はいまだ、年末の風物詩として残っている。その一方で、ミシュランガイドに対しての食べログといったように民意による評価が勢いを増してきている。評価の影響力が権威から民意へと移行するなか、その裏側で何が起きているのか。権威と民意、そのどちらとも違う立場から世の中を見つめてきた批評家・佐々木敦さんに、いまの時代における評価の実態と行く末を伺った。
権威の力が弱まったあとに、人々が求めるものとは
── SNSやレビューサイトでの評価がブームの火付け役となるいま、昔に比べて権威の影響力が弱くなっていると感じています。それは、権威そのものの力が弱まっているのか、人々がそういったものを信じなくなってきたのか、どちらなのでしょうか。
いまも充分に機能している“権威”もあると思います。たとえば『東大』。「東大教授が言った~」とか「東大の○○授業」みたいなものはすごく売れていますよね。“日本で一番の大学”というような、誰にでもわかりやすい権威はまだあるし、もしかするとその力は昔より強くなっているかもしれない。いろんな「賞」もそうですよね。
けれども一方で、そういう、わかりやすく誰もが権威と認め得るものが、どんどん減ってきている。昔は“知識人”ってもっといたし、その人が権威になるプロセスもいろいろあったと思うけれど、いまは、そうではない。誰かが権威となる場合、その人が権威として信用に足る条件とは一体何なのか。その基準が変わってきたということなのかなと思います。
── 求められるものは“知識人”や“専門家”といった肩書きとは別のものになってきているように感じますね。
たとえば映画だったら、いま一番“影響力”を持っているのは、映画評論家の町山智浩さんじゃないでしょうか。でも町山さんは“権威”というよりも、とにかく映画が好きでたくさん観ていて、その魅力を語ることができる人。Twitterでもたくさん発信されていますよね。
もしかしたら、様々なジャンルで町山さんみたいな人が生まれているということかもしれません。ある種の民意を代表している、民意の側に訴えかけることができる人たち。それは新しいタイプの権威と言えるのかもしれない。
かつての権威は、どこか上から目線で、民意はそこに対立するものだった。でも威圧的なことが好まれなくなってきて、どんどん崩壊してきている。情報が権威を経由しなくても取れるようになってきたことが大きいだろうし、「どこどこの教授というだけでは信用できない」という風に、民意の側が昔より利口になったということでもある。
そういう民意に寄った評価って僕は全然悪いとは思わないし、“なんかよくわからないけどえらいってことになっている奴”にああだこうだと言われるよりも、よっぽどマシなんじゃないの、とは思いますね。
── “民意”の部分も、オリコン、視聴率といった単純な数字の積み上げだけではなくなってきていると思います。『食べログ』の延長線上の『ヒトサラ』というアプリでは、お店につけられた点数で判断するのではなく、お気に入りのレビュアーをフォローし、その人のおすすめからお店を探すといった文化が生まれている。市井の人を自分の意思でフォローする、というところにコミュニティ的な動きが出てきているように見えます。これは民意の可能性と言えるのかな、と。
自分がいいと思ったコミュニティのなかでの評価を信じる、“小さな経済”や“小さな価値観”が生まれていますよね。そういう流れは本屋などでも見受けられます。小さい書店は書店主がバイヤーで、その人がセレクトした本を置いている。これはセレクトショップの発想ですよね。
’90年代、日本のタワーレコードが世界で一番すごいと言われた時代がありました。“あそこに行けば、なんでもある”という。そしてタワーレコードが発行する『bounce』というフリーペーパーには、ありとあらゆる音楽が載っていた。
その頃の僕の主な仕事は音楽評論でしたが、当時自分で雑誌もつくっていて、かなり意図的に「bounceにはなんでもあるのだから、こちらは絞り込んだ価値観で選んだものしか載せない雑誌をやろう」と考えていましたね。それはデパートとセレクトショップの関係ですし、いまあらゆるものがどんどんそうなってきている。
影響力のあるブロガーみたいな人やレビュアーがいっぱいいて、そこから“選べる”みたいなことが、いまは重要なのだと思います。そのなかで争ってトップを決めるようなことをすぐに考えがちですけど、できる限りそういう“権威をつくらない構造”みたいなものが新しいのではないかと思うんです。でも新たな権威が生まれてくる背景も実は同じところに隠れているような気がするので、どっちに転ぶかというのはわからないですよね。
要するに、食べログでフォロワーがたくさんいるすごいレビュアーが話題になったとしても、それを“権威”として固定しなければいいという話だとも思います。とはいえ、一方では「そんなにめまぐるしくたくさんの価値観を出されても無理!」と感じる人も少なからずいるはずで、そのあたりをどう調整するか。個人的には、みんな小学生くらいから多様なものに対する耐性を身につけたほうがいい、とは思っているものの、日本の教育は完全に真逆な方向に行っているからかなり厳しいと感じますけどね。
── 先ほどのセレクトショップの話に通じるような、もう少し中間的なもの、小さいながらも民意が反映された価値観やもののあり方が今後どうなるのかについては、とても興味深いです。いまだと、青山ブックセンターが出版もするという取り組みだったり、音楽でもインディーズやメジャーに関係ないアワードが生まれていたりと、権威的ではないもの、民意的なものの新しい動きも気になります。
青山ブックセンターは、本当に“小さな経済”をやろうとしていますね。本の流通に欠かせないISBNコードも取得せず、つくった本は本当に自分たちの店だけで売るつもりだとか。でも、今後あらゆるところでそういう動きが出てくると思います。
たとえば『本屋大賞』って、直木賞や山本周五郎賞といったエンタメものが権威を持ちすぎてきたので、全国の書店員さんで本を選びましょうと始めたものでしたけど、いまは本屋大賞も権威化している。結局、そうなっちゃう。
それでさらに対抗するべくライターの豊﨑由美さんが『Twitter文学賞』を始められて、僕もいっしょにやっていました。まあ、本屋大賞に比べるとまったく弱小ですけども。僕が豊﨑さんすごいな、えらいなって思うのは、彼女は来年の10年目を区切りに、この賞をやめようとしていることなんです。
「誰かが代わりにやってくれるんだったらいいけれど、私はもうやらない」と。最初は少なからず豊﨑さんのファンの人たちが投票するだろうというところから始まっているけど、そういうことを固定化したり、ずっと持続するという風にしない。
ある意味ではしんどいかもしれないけれど、やっぱり“やめ(られ)る”ということでしょうね、重要なのは。本屋大賞もそろそろやめればいいのに(笑)。やめるにやめられないんだろうけど。人はシステムをちゃんとつくってしまうとやめたくなくなっちゃうから。
── うまくつくれたら、売れる仕組みになるわけですしね。
そうです、芥川賞だってそもそもは、菊池寛が本を売るために始めたものだしね。まあ、人間はある程度以上有名になったりお金を持つと下手をうつ(笑)。そういう新陳代謝も早まっていますしね。とはいえ、サイクルの速さに耐えられないって感じる人もいると思うので、いろいろ難しいとは思いますが。
── 調整する機能は、いま、一体どこにあるのかというのは悩ましい話ですね。
新陳代謝の速度に追いつけない人へのケアを考える、っていうのも必要ですしね。本当に単に商売のことだけ考えているんだったらそんなに売れ続けるわけがないから、もう少しサステイナブルな時間枠で考える必要がある。
── 何かを売ろうとする思考がすぐ強くなってしまうということですね。本来、もう少し産業とか文化に寄与するとか、お金にはならないけれど作者のモチベーションだったり、それに追随する若手のモチベーションになったりするというのも、賞や評論の役割としてあると思うのですが。
僕が批評家としてやっているのは“その作品が何をやっているのかを読み取ること”、そしてまだそれを知らない人に「ここを掘ると何か出てくるよ」と示すことです。
それは食べログで言うと、まだみんなが知らない店ばかり行って、そこで食べたものを美味しいとかまずいとかではなく自分なりに紹介する人、という感じ(笑)。僕が何かを紹介することで、数は少ないかもしれないけれど、それをきっかけに知った人が少しばかり買う、ということはあるかもしれない。けれど、僕は批評家としてはそれ自体を目標にしているわけではなく、とにかく単純に知らせたい。知らせたあとに商売は始まるわけなので。
そうやって「とにかくここにコレがあるんだ!」と、ほかの人が気づいていないものを示す人というのは、僕に限らずもうちょっと必要だとも思います。バンドワゴン効果で、勝ち馬に乗ることは簡単なんです。インターネットの登場で、さらにそれは簡単になった。“これから来る人”とかですら検索すれば出てきちゃうわけですからね(笑)。
話題や評判を消費し続ける時代。批評にできるのは、別軸を担保すること
── SNSの普及により、人々の間で話題となるものがどんどん移り変わっていく時代になりました。
僕もインターネットやSNSはよく使いますけども、いよいよもって、“話題と評判の時代”だな、と感じています。話題にどうやって火をつけるか、それだけが勝負。たとえ一瞬で終わってもいいから、どんどん火をつけていく。いいねやリツイートをどう稼ぐかといった “話題消費”や“評判消費”とでも言うべきものがほとんどすべてを支配しているかのような。
そしてそれはもう防げないし、自分だってその一員であることは免れないわけで。実際、評判は気になるわけです。エゴサーチとかもしますしね。
けれども、それとは何か違う軸みたいなものを、微力でもいいから提示しておきたい、という気持ちが自分のなかにあるのだと思います。
僕はライターとして映画と音楽の分野でもの書きをしてきましたが、10年くらい前から、かなり意識的に『批評家』と名乗るようになりました。
── 先ほどお話に出てきたような“小さな経済”には批評が必要、ということでしょうか。
一般的に、相対的な価値判断をうまくできる人が“批評家”なのだと思われていますよね。つまり「ふたつあったら、こちらがいい」とか「ベストテンを選び出す」とか。
そういう価値判断をすることで、多くの支持を得られる人こそが優れた批評家であると。まあ、普通そう思いますよね。ある意味では、そういう個人的な価値判断を、あたかも個人的な価値判断ではないかのように伝える、ということが批評の技術であるのかもしれません。
でも批評は、ディベートとは違う。「AとBでどちらかしか選べないのだったらA」と言ってもいいけれど、「じゃあその場合、Bは何なのか」ということ、「なぜAとは違うのか」「なぜそれはあるのか」ということを考えるほうが重要なのではないか。
単に選択をするためのツールではなく、「Bが存在している意味はないのか」とか「Bがダメだとなぜ自分は思うのか」とか、そういうことを考えるほうが生産的である、と思うようになってきたんです。だから批評というのは相対的な価値判断というより、僕にとっては“Bとは何かを考える”ということなんです。
── 音楽評論や映画評論をされるなかで、佐々木さんご自身がランキング至上主義のようなものに限界を感じたということでしょうか。
まあ、いまでも依頼されてやったりもするんだけど、単純に「そういうのは人それぞれだよね」という気にしかならない(笑)。だってそうじゃないですか?
── ええ、まあそうですよね。
それが事実なので(笑)。あと僕は、多様性みたいなもののおもしろさを信じている人間だから、ベストテンみたいなものがあったら、そのベストテンの“外”にあるもののほうが気になる、というタチなんです。世界にはいろんなものがあるよね、そしてこれからもいろんなものが生まれてくるよねってこと自体に価値があると思っているので。「これがあれば、これはいらない」というような考え方は、僕は好きじゃないというか、性に合わないのです。
── なるほど。けれどもいまの民意という意味では、多様性のおもしろさを受け入れる人と、それに疲れを感じる人との間でも、摩擦が生じているように感じます。
インターネットやSNS以降って、「これがあればほかはいらない」っていう考え方を提示したほうが受け入れられやすいっていうのは事実としてありますよね。2011年に僕が『未知との遭遇』(筑摩書房)という本を出したときにも書いたことですけども。
たとえば、いまの学生が“ノーベル賞をとったボブ・ディラン”という人を初めて知ったとします。昔だったら、そのボブ・ディランの音楽を聴くためには一生懸命雑誌やレコード屋で調べる必要があったわけです。でもいまだったら、下手するとネットで“ボブ・ディラン”と入れるだけで全部の音源が聴けちゃうかもしれない。
それはインターネットの恩恵のはずなんだけど、逆に音源が出てきすぎちゃって、すべてを聴く時間はない。「先生、どれを聴けばいいかわからないので、10曲、いや3曲だけ教えてください!」ってなる。インターネットは世界を大きくしたと思われているけれど、便利になるほどにネット上に存在する知識の無限さとは対照的に、自分の有限さのほうが気になってきてしまう、というパラドックス。
どんどんそういう風になってきたので「これだけでいい! ほかはいらない!」って言い切れることのほうが求められているし、正義に近い、みたいになっている。「これとこれとこれはマストだけれど、実はこれ以外にもいろんなものがあって、君がこうこうこういう人間だったら、これも君にはいいはず。ほかの人にとってはどうかわからないけど」というような紹介を繊細にやることが、どんどんできなくなってきているというのがこの10年くらい感じていることです。僕も新書を出したとき、帯に「これで全部わかる!」みたいなことが勝手に書かれている、なんてこともあったりして。
── 勝手に!(笑)
まあ、勝手にというか知らないうちに僕が「うん」とか言っちゃってるんでしょうけど(苦笑)。で、まあそんなの嘘なんです。全部わかるはずなんてないのだけど、それを信じたい気持ちが多くの人にはあると思う。自分だって、知らないジャンルのことを知ろうと思ったら“手っ取り早くわかる”みたいなことを求めるはずなので。
だからここからは、「手っ取り早くわかる」「これだけでいい」の「あと」をつくること。それだけでは終わらせないでその先をつくることがやっぱり一番重要で、つねに二段構えで行くしかない。平たく言うと、インターネットとSNSがいろいろとダメにした、とは思っていて。自分も使うし便利なんですけどね。
とにかく、10年くらい前から始まったプロセスが、このあと劇的に好転するとか違うフェーズに行くみたいなことはたぶんない。昔には戻らないとわかっているなかで、どういうことを考えていくべきなのかという。これはもう批評だけではなく、普通に生きているなかでも必要になってくると思うんですよね。
── 佐々木さんはずっとそういうことをやってこられていますよね。
昔だったら、“インディペンデントの音楽レーベルをやっています”という人にとってはメジャーレーベルが敵だった。けれど、もう敵ではなくなっている。こちらが勝ったわけではなくて、“敵”はもういないんです。
メジャーなもの、ポピュラーなもの、あるいは体制、みたいなものがあって、それに対して“アンチ”というか、反対のもの、逆張りをかかげていく、みたいな形はもう限界というかなくなっていくと思う。そういうわかりやすい対立構造で考えている限り、新たなものは絶対に出てこない。
僕は音楽レーベルをやったり雑誌の発行をやってきて、大方それらはマイナーなことでした。でも別に、「メジャーなものよりこちらのほうが価値があるんだ!」とか思っているわけではないんです。たまたま、自分の好みがそういうものだというだけで、僕だってメジャーなもので好きなものはあるし。でも有名じゃないもので自分がいいと思うものがあるならば、もの書きとしてはまずそちらを紹介したほうが価値があるよね、という意味での批評ですね。
確かに最初は微妙にアンチ感からスタートした部分もあるかもしれないけれど、いまはほとんどそういうものはないかな。売れる/売れない、多数決で勝つ/勝たないといった論点で、僕自身はかなり負ける自信がある(笑)。多数決で勝てる人たちを敵視しているということもないんですよね。敵視してもいいことなんてなんにもない。
── SNSなどで評判消費という形でポピュリズム的民意が加速していくこともあるけれども、そこに勝つ、あるいはアンチというスタンスではなく、別のものをつねにつくっておくことに意味がある、と。
ぼんやりとした大多数のわれわれ、最大公約数的なものが民意と言えることもあるだろうし、そこからあるひとりのカリスマが生まれることもありえる。政党などもそうやって誕生するものですし、それはずっとぐるぐると回転している。たぶんもともとそうだったのだけれど、ネットはそれを可視化して増幅した、ということなんでしょうね。経済の構造だけで考えても、売れているものがますます売れるということが極まっているわけですよね。
それで自分が恩恵をこうむることもあるし。自分もそういう流れのなかに入ってプレイヤーになることもあるわけですし。その一方で、“小さな価値観”の“小さな経済”ということを考えている人が増えているのも事実。
“話題消費”や“評判消費”といったものの一部に自分も入りつつ、でもそれだけじゃないっていうのをいろいろな形で示していく、ということですかね。メジャーなものに対してアンチを標榜することは無駄なヒロイズムで、僕はそういうのは全然正しいとは思っていません。“でも、それだけじゃないよね”という部分に、批評の役割があると感じています。
構成・聞き手・文:鈴木 絵美里/写真:赤石 隆明
佐々木 敦 (ささき あつし)
1964年生まれ。批評家。音楽レーベルHEADZ主宰。芸術文化の諸分野を貫通する批評活動を行なっている。『ニッポンの思想』『ニッポンの音楽』『ニッポンの文学』(すべて講談社)、『批評時空間』(新潮社)、『未知との遭遇』(筑摩書房)、『新しい小説のために』(講談社)など著書多数。最新刊は『アートートロジー』(フィルムアート社)。
_______________
この記事は2019年7月24日に発売された雑誌『広告』リニューアル創刊号から転載しています。
最後までお読みいただきありがとうございます。Twitterにて最新情報つぶやいてます。雑誌『広告』@kohkoku_jp