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126 ラグジュアリーブランドの「文化戦略」のいま

2022年の国際カミングアウトデーのことだった。「カミングアウト」の真の意味にまったく無自覚なまま、日本の複数の企業や機関は、商品や組織のあまり知られていない情報を「カミングアウト」する、と軽く冗談めいた投稿をして、案の定、炎上した。

性的指向を打ち明けるという繊細な意味を持つ「カミングアウト」は、社会的弱者の立場に置かれがちなLGBTQの人々の尊厳に関することなのだが、炎上、撤回、謝罪した企業は、そもそもそんな含意があることなど組織内の誰も知らなかったと言い訳した。このような事例は、単一の価値観でまとまりがちな日本においては氷山の一角なのだろう。

一方、同じ頃、ジバンシィやケンゾーを展開するLVMHグループのフレグランス部門は、採用活動のプロセスで、応募者がエントリーする際に提出する履歴書などの書類において、性別、婚姻状況、生年月日の記入や写真の添付を求めないという取り組みを開始した。性的指向どころか、デリケートな差別の対象になりやすい年齢やルックスすら問わないのである。インクルーシブな雇用を強化することが狙いだという。時代の変化をいち早く察知して、来るべき望ましい社会の方向に向けて先頭に立って後押しするというラグジュアリー企業の行動の一例でもある。

現在、ラグジュアリー産業の主力プレイヤーは、フランスのLVMHグループおよびケリング・グループ、スイスのリシュモン・グループを中心とするグローバルコングロマリット、および高付加価値商品やサービスを扱う独立ブランド群である。戦略コンサルティング会社のベイン・アンド・カンパニーが発表したパンデミック前の2019年のデータによれば、世界の市場規模は140兆円以上にのぼる。2020年には激減しているものの、2022年はさらなる伸長を示し、最終的には前年比19〜21%増、2019年比においても8〜10%増となるという。

ちなみに、日本におけるこの市場の勢いをうかがい知るには百貨店の外商の売上高がひとつの参考になる。富裕層を対象とする外商は、食品や雑貨までをも扱うとはいえ、主力商品は付加価値の高い宝飾・時計、ラグジュアリーブランドのファッションや化粧品、美術品である。たとえば三越伊勢丹の主力2店の外商売上高は、2019年度に716億円だったところ、2022年度は860億円に達する見通し。阪急阪神百貨店も全店舗合計の外商売上高で、2022年度は740億円を見込んでいる。過去最高の数字である。ラグジュアリー産業はパンデミックでもさほどダメージを受けなかった。それどころか、富の格差が広がれば広がるほど「強さ」を発揮しているのがこのビジネスの特徴である。

金融資本主義が支配するこの産業は、1980年代から1990年代にかけて大きく成長し、現在のような支配力を持つにいたった。つまり、たかだか30~40年ほどの歴史しかない新しい産業なのだ。とはいえ、この産業は、世界の人々の価値観の変化に敏感に反応し、ここ30年の文化の形成に密接に関与している。宗教への信仰や政治に対する信頼が急落した代わりに、ラグジュアリーブランドに「真」や「善」や「美」の指針を見出そうとする傾向さえ見て取ることができる。むしろ、ラグジュアリーブランドが自らその指針を積極的に示すようになっている。

2019年のパリのノートルダム寺院の火災がひとつの顕著な例である。まっさきに修復のために1億ユーロを寄付したのはケリングの会長、フランソワ=アンリ・ピノーであった。少し遅れをとったLVMH会長のベルナール・アルノーは、2億ユーロを寄付した。「美徳のひけらかし」合戦と揶揄する向きもあったが、ラグジュアリービジネス領域のコンテクストにおいては、この「美徳」に則った社会貢献はむしろ当然のことだったのだ。前出のベイン・アンド・カンパニーによれば、ラグジュアリーブランドの若年顧客の約80%は「社会的責任を果たしている企業を好む」のである。それに応えるラグジュアリーカンパニーは、社会的責任を意識し、様々な社会課題に対して率先して指針を提示する存在であろうとしている。

ラグジュアリービジネスは、炭鉱のカナリヤのように、社会の変化に対していち早く敏感に反応する。ゆえに、この領域で起きていることを知ることは、近未来の一般社会で起きることを予測することにもつながる。履歴書に生年月日も性別も書く必要がなくなり、写真添付も不要になるという日は、そう遠くないと考え、備えをすべきなのである。

本論では、ここ30年で飛躍的に成長したグローバルなラグジュアリービジネスがいかに社会の変化と結びつき、新しい文化を形成してきたのかというストーリーを描く。その前に、そもそもラグジュアリーとは何なのか、1980年以前のラグジュアリーはどのような存在だったかを概観したい。


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