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127 成金と文化支援 ~ 日本文化を支えてきた「清貧の思想」


秀吉は悪趣味?

みなのために「よかれ」と思ってやったことが、どうにも想定していたような賛同・共感を得られずじまい……。そんな例は世にいくらもある。文化芸術の世界においても、パトロンを気取ってドンと大盤振る舞いし、表現者や作品の保護普及に努めたつもりだったのに、温かい目で見てもらえなかったという人はいつの時代にもたくさんいる。

たとえば、戦国時代を勝ち抜いて天下人にまで上り詰めた、かの豊臣秀吉。織田信長の遺志を継ぐかたちで並み居る武将たちを押しのけ、日本全体を配下に収めた秀吉は1586年、年頭の参内で正親町おおぎまち天皇に面会する際に、組み立て式の「黄金の茶室」を持参し披露した。3畳と小ぶりではあるが、天井から壁、柱までを黄金箔で覆ってあるという代物だった。畳表は猩猩緋しょうじょうひと呼ばれる深い赤色、そこに並べて用いる茶道具はどれも煌々と金色に輝いていたという。

秀吉は自身が実権を握るとすぐに千利休を筆頭茶頭へと取り立てて、茶の湯で内政を治めようとしていた。文化を治世の柱に据えるとは、なんて開明的であることかとは思うものの、そのことと本人の趣味がいいかどうかは、また別の話である。

秀吉は平民の出であって、教養や品を備えていないことを本人も気にしていたようだし、生来の派手好きなところも終生変わらなかった。対して利休が唱えたのは枯れた風情で、知的なゲームのような要素も混じる「侘び寂び」の美学。秀吉がどこまで馴染めていたのかは定かでない。

千利休のほうは、本心でどう思っていたか。心の動きの詳細が伝わっているわけではないので正確にはわからないけれど、秀吉の趣味に感心していたとはとうてい考えられない。黄金の茶室について、利休が諸手を挙げて感嘆し賛成することはなかったろうと思われる。

秀吉と利休の感覚が隔絶していたことの傍証としては、利休の死に方がある。秀吉の権力が強大となるにつれ利休は天下人からの信頼を失っていき、最後には切腹を命じられて事果ててしまう。この悲しい結末へ至るには、両者の「趣味の違い」が大きく作用したのではないだろうか。

静岡県熱海市のMOA美術館に、黄金の茶室の復元が常時展示されている。現地を訪れて、光り輝くその空間を眼前にすれば、人それぞれなんらか胸中をよぎるものがあるだろう。実見すると、確かにある種の妖しい魅力はあるものの、「落ち着かなさそう。悪趣味だな……」という思いがよぎってしまうのが正直なところだ。

「自分が死んだら名画も焼いてくれ」

時代はくだって20世紀。日本国内にとどまらず、世界中から反発を食らった例がひとつある。

確かにいま耳にしても、言語道断の発言に思える。「俺の棺桶に入れて焼いてくれ」などというのは。何を焼くのかと言えば、ゴッホとルノワールの名画だ。発言の主は、大昭和製紙の名誉会長だった齊藤了英という人物。

1990年、齊藤はゴッホとルノワールの作品を購入した。費用は2点合わせて1億6,060ドル。日本円だと200億円以上となる。翌年に開いた記者会見で、先の発言は飛び出した。買ったばかりのゴッホとルノワールについて問われ、自分が死んだらこれらをいっしょに焼いてくれと言い放ったのだった。

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