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140 文化的な道具としての法の可能性

1. はじめに

近代以降、法は、社会をどう統制していくか、新しく生まれてくる技術のためにどのように制度を整備していくか、という「文明」的な道具として活用されてきた。しかし、法制度や個々人の法に対する意識、観念、態度、価値観、規範がある程度堆積し、それがわたしたちの生活様式や行動様式、思考様式のなかに組み込まれていくと、それは文化にもなる(このような法に関する環境、意識、態度、価値観などを「法文化」と呼ぶことがある)。また、「文明」と「文化」は連続的なものであり、対立的な概念ではない。

法が文明的な道具としてだけでなく文化の一部を構成するとして、一方で、それとは別に、法がある特定の文化の形成に寄与したり、それを支えるということはあるだろうか。文化を支える法というと、文化芸術基本法、文化財保護法、著作権法などの文化芸術を支える文化政策関連法を想起するが、本稿で想定する「文化」はいわゆる文化芸術だけではなく、言語、習俗、宗教、種々の制度のように、社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式や生活様式、思考様式の総体という幅広いものである。

このような法は、先述した「文明的な道具」としての法とあえて対置すれば、「文化的な道具」としての法として捉えることができる。そして、この文化的な道具としての法は、国が定める法律レベルのものから、自治体が定める条例レベルのもの、裁判所の判例のような司法が判断するもの、あるいは慣習法のように特定のコミュニティや分野のみで通用しているものや、契約のように一個人や一企業が始めるものまで様々なレベルのものが存在する。

文明批評家のイヴァン・イリイチは、現代における道具による人の奴隷化を指摘し、それをコンヴィヴィアリティ(自立共生)という概念を梃子てことして転換していく必要を説いた。イリイチは、法もまた社会的道具ではあるが、近代以降の法システムは、産業主義的な合意により深く「堕落」させられており、自立共生的な道具に転換するのは困難であると指摘した。このイリイチの指摘を本稿の文脈で捉え直せば、法を文明的な道具から文化的な道具に転換するということになろうか。文化的な道具としての法は、わたしたちがいかに法をコンヴィヴィアルな道具として活用することができるのかの問題と言い換えられる。

本稿では、いくつかの具体例をとおして、ある特定の文化の形成に寄与したりそれを支えたりする法の一側面と、「文化的な道具」としての法の可能性について考察してみたい。

2. 具体例

先述したように、法には憲法、法令や条例、判例、契約、そして慣習法まで様々なレベルのものがあり、それぞれのレベルで一定の文化形成に寄与するものがありうる。以下では、各レベルの具体例を挙げていく。

2.1. 男女雇用機会均等法とパートナーシップ条例

最初に男女雇用機会均等法(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律)を取り上げる。同法は1972年に施行された。性別を理由とする差別の禁止や雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保のために事業主の講ずべき措置、そして事業主に対する国の援助等を定めている法律である。すでに職場での男女差別が制度的に禁止されていることはわたしたちにとって常識となっているが、50年前まではそうではなかった。この間の制度的な変更やわたしたちの価値観の変化に鑑みれば、男女雇用機会均等法という法律が職場での男女差別の禁止や地位向上等の文化に果たした役割が大きかったことに異論を唱える声は少ないだろう。もちろん、制度的に差別が禁止されていてもなお、人事評価や経営層への採用など現在に至るまで多くの不平等が残る状況があることもまた広く認識されている。

男女雇用機会均等法の制定に中心的な役割を担ったひとりである赤松良子氏が著した『均等法をつくる』(勁草書房)では、この法律が制定されるまでの様々な苦闘が描かれている。本稿の主題との関係でとくに興味深いのは、男女雇用機会均等法を巡っては、この法律が「男は仕事、女は家庭」という役割分担を下敷きとした日本の伝統的な文化を破壊するとの反論が大きかったということである。このように、すでにわたしたちにとってあたりまえの文化や価値観になっているものも、その端緒においては従前の文化を壊すものとして生まれてきたのだ。

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