106 聖なるものづくり、聖なるブランディング
近年、世界的に宗教を信じる人が減少しており、日本では「自分は無宗教だ」と考える人が半数を超えると言う(※1)。その一方で、ビジネスの世界では、マーケティングの領域で宗教をメタファーとして使うことも多い。ものがあふれ、技術力や価格による競争で差をつけることが難しいいま、顧客の共感を集め信頼によって価値を高めるブランディングが有効だと考えられているからだ。
神仏や自然のような大いなるものに畏敬の念を抱き、聖性を感じて祈る宗教と、人間の「信じる」領域にまで踏み込むマーケティング。両者に重なり合う部分があるのはなぜなのか? ものづくりやブランディングに「聖なるもの」は顕れるのだろうか。宗教学者の釈徹宗氏とマーケターの福井良應氏、ともに僧侶であるおふたりと本誌編集長の小野直紀による鼎談をとおして、現代社会に顕れる聖性とものづくり、ブランディングのあり方を探る。
広い意味では誰もが宗教的な営みをしている
小野:初めに、宗教あるいは宗教性について伺いたいと思います。
福井:日本では「自分は無宗教だ」と言われる方が多いのですが、釈先生は以前「宗教の問題は、信仰の有無にかかわらずあなたの問題である」とお話しになられていましたね。
釈:この社会には宗教がその人の人格そのもの、人生そのものに深くかかわっている人がおられます。われわれはその人たちといっしょに社会を運営していかないといけないので、無関心というのは具合が悪いですよね。他者の宗教性に対して理解と敬意を持たないといけません。たとえばLGBTQの方が抱える問題について、「自分はヘテロだから関係ない」という姿勢ではいい社会にならないのと同じですね。
福井:日本人は「無自覚の宗教性」があると言われます(※2)。パワースポットが好きだったり、お守りを大事にしたりするけれど、普段は宗教を信じているとはあまり考えていない。でも社屋の屋上に神社をつくったり、社長室に神棚があったりする企業だってたくさんありますよね。
釈:そうですね。広い意味では誰もが宗教的な営みをしていると思います。東京工業大学の上田紀行教授が言われていたのですが、授業で「君たちは神様を信じていますか?」と聞くと、学生たちは「信じていません」と答える。でも、みんな受験のときに合格祈願のお守りをもらっているんですね。「じゃあ、それをいまハサミで切って捨ててください」と言うと、「先生! そんなことをしたらバチが当たります!」と(笑)。
宗教は決して信じることが前提ではないと思います。行なう宗教性も感じる宗教性もあって、これらはすべて宗教の形態として捉えられると思います。たとえば、「何かこの先にはすごそうなものがある」「近づいたら怖いんじゃないか」と感じる、境界線のあたりに歩みをずーっと進めていって向こう側を覗こうとする。恐る恐る近づく行為自体も宗教的な営みだと思うんです。
小野:宗教性のタイプというのは、人によって違うのでしょうか?
釈:そうですね。その場に身を置いたときに、聖性を感じ取るのが得意な人は感じる宗教性タイプと言えます。手を合わせたり念仏を唱えたりすることに強い抵抗を感じる人がいる一方で、あっさりと受け入れて上手に振る舞える人もいます。こういう人は、きっと行なう宗教性が得意なタイプなんだと思います。
小野:信じていなくても、感じていなくても行なうという宗教性って何だろう? と思うんです。たとえば、僕は仏教系の高校で毎朝の朝礼で般若心経を唱えていましたが、何も信じていないし感じてもいなかったんですね。般若心経の内容は、授業で学んでそれなりに理解していましたが、その行為が自分にとって意味を持っているという認識はありませんでした。
ところが、今回この鼎談を企画するなかで、「色即是空、空即是色」などと般若心経のフレーズが浮かんでくるんですよ。あの朝礼は何かに繋がっていくんだなと思うと、初めておもしろみを感じました。
釈:仏教では、あらゆる行為や思考、発した言葉も自分のなかに蓄積されていて、機縁があれば発動すると考えます。また、宗教の言葉は独特の性格を持っていて、絶体絶命のときに立ち上がってくることがあるんです。場合によっては、絶望のどん底に落ちたときに般若心経の声が聞こえてくるかもしれません。あるいは、ご高齢になって認知症を患われたときに、お坊さんが誦む般若心経に自然と唱和して、滂沱の涙をこぼしてしまうことが起きるかもしれないです。先立っていた行ないが、長い時を経て自分を導くわけです。こうしたことは、聖書やクルアーン、様々な聖典の言葉でも同じように起きます。
「聖」とはヒューマンスケールを超えるもの
小野:宗教学においては、聖性をどのように捉えているのですか。
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