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111 まじめな遊び、ふざけた遊び


1. まじめな遊び

・ホイジンガの遊びの理論

文化史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』は、文化と遊び(※1)の関係について、初めて深くまじめに論じた著作として名高い。とくに「遊びの相のもとに(sub specie ludi)」という標語のもとで、文化の様々な側面をある種の遊びとして理解しようと試みたことは、よく知られているだろう。

ホイジンガは、先行するいろいろな遊びの定義論をまとめて却下したうえで、自身の遊びの定義を提案している。先行する定義論はすべて、「生物学的機能」の観点から、つまり結局のところ遊びは何の役に立つものなのかという観点から、遊びを定義している。しかしそうしたアプローチでは、遊んでいる当人にとっての遊びの「意味」、遊びの「おもしろさ」、遊びの「本質」はまったく明らかにならない。というのも、遊びの実際のあり方を観察してみれば、それは何か別の事柄のために奉仕するものとしてではなく、それ自体で自立したカテゴリーとして説明されなければならないはずだからだ、とホイジンガは主張する。

ホイジンガ自身が提案する遊びの定義(ホイジンガの言い方にしたがえば「遊びの形式的特徴」)は、次のようなものだ。

形式について考察したところをまとめて述べてみれば、遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているのでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間のなかで遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範をつくり出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。(※2)

ホイジンガの見解のポイントを整理しておく。第1に、遊びは「自由」な活動であるという特徴、つまり強制されたり義務でやったりするようなものではないという特徴を持っている。第2に、遊びは「日常生活」あるいは「現実」から一時的に切り離された活動として行なわれる。言い換えれば、現実的な利害や生活上の必要性に直接かかわらない。第3に、遊びは、その外部から明確に区切られた時空間のなかで行なわれる。スポーツの試合が行なわれる場所と時間のあり方を考えるとわかりやすいだろう。第4に、遊びは「絶対的強制力」を持つルールのもとで秩序を維持しながら行なわれる。とはいえ、このルールの絶対性は、あくまでその遊びの参加者にとってのものでしかない。秩序ある遊びの活動は、参加者全員がルールを守ることによってのみ成り立つ一種の「イリュージョン」であり、ルールを破るプレイヤーが登場すると、たちまちその秩序は崩壊してしまう。だからこそ、ルール破り、つまりスポイルスポート(spoilsport)は、遊びの世界では「抹殺されなければならない」のだ。第5に、プレイヤーたちは、その遊びの秩序を維持し、またそれを繰り返し行なうことができるようにするために、コミュニティをかたちづくる傾向にある。

ホイジンガは、人間社会におけるいろいろな文化的な営みのうちに遊びの要素が見いだせることを指摘している。たとえば、宗教的な儀式や祭り、戦争や裁判、詩や比喩、哲学や芸術などに遊びの要素が見られるという。ホイジンガによれば、これはある意味で自然なことだ。というのも、文化は本来「遊びのかたちをとって」生じ、「遊ばれる」ものだからだ(※3)。実際のところは、ホイジンガが遊びと文化の連続性や類似性を論じる際に注目する特徴は多岐にわたる。現実的な利害からの分離や生活上の必要のなさ(上記の第2の特徴)、時空間的な区切りの明確さ(第3の特徴)が取り上げられることもあれば、コミュニティの形成への傾向(第5の特徴)が取り上げられることもある。また、「高等な遊び」のふたつの基本的な「機能」または「態度」とされる闘争と模倣(※4)が、様々な文化的な営みのうちに見てとれることも論じられる。

ホイジンガの議論が全体として説得力があるかどうかは、ここでは問題にしない。ここでは、主に上記の第2と第4の特徴に注目しつつ、その背後にある遊び観について確認しておきたい。あとで見るように、それはまた、広く文化全般を考えるうえでの視点にもなる。

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