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132 未知なる知を生み出す「反集中」


0. 序

いまから700万年前にその祖先となる種が誕生して以来、人類は一度も途絶えることなく存続してきた。もちろんそれはヒトに限った話ではなく、様々な種がこの700万年をともに歩んできたということでもある。ヒトがほかの生物と比べて特徴的なのは、知識を生み出し共有することによって環境に適応し、世代を超えてその知識を引き継いできたことだろう。

ハーバード大学人類進化生物学教授のジョセフ・ヘンリックは、著書『文化がヒトを進化させた──人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』のなかで、たとえどれだけ屈強であったとしてもヒトはその土地独自の知識がなければ生きていけないことを示している。ヒトは、高山地帯や灼熱の砂漠、極寒の極地や熱帯雨林の奥地など、様々な土地で生き延びることができる一方で、その土地独自の生きるための知識を剥がされてしまうと、あっという間に死に絶えてしまう。ヘンリックはこの知識を「文化」と呼んだ。

「知識」もしくは「知ること」は、現代では生存と直接関係ないものと思われているかもしれない。むしろ、生き延びるためには、衣食住や安全の確保、そして現代社会においては経済活動をとおして金銭を得ることなどが必要だと考える人が多いだろう。しかし、それらの行為もすべて「知識」があって初めて成り立っている。

岐阜県羽島市に三星毛糸株式会社という1887年に創業した繊維事業会社がある。従業員数100名を数えるこの会社には、全長10mほどの巨大な織り機が置かれている。筆者は、昨年6月にこの会社を訪ねた際、産業革命時代のイギリスの工場を彷彿とさせる織り機を前にして、その操作方法はおろか、どの部分がどう機能しているのかまったく見当もつかず、ただただそれが稼働する様子を見つめることしかできなかった。そしていま、その操作方法もわからないものによって織られたシャツを着ている。

もちろん織り機には操作を行なう人がついていて、筆者がただ様子を見ている間もずっと操作を繰り返していた。彼女にあって筆者にないのが、織り機を動かすための「知識」であり、織り機の各部がどのような役割を担っているのかの「知識」だ。そして、この織り機を動かしている彼女も、織り機の部品をつくり組み上げるための「知識」は持っていないし、織られている糸を生み出す羊を育て上げるための「知識」も持っていない。

現代は、多くの細かな、ときに場所だけでなく時代を超えた役割分担によって成り立っている。そして、「知識」がなくても衣類を手にすることができるように思えてしまう社会においても、その源泉を辿っていくと、必ず「知識」の存在に突き当たることになる。

1. 知識と知識へのアクセス

人が生きていくためには、「知識」が欠かせない。それは、自分自身が持っていないとしても、必ず誰かが持っていなければならない。この生きるために必要な知識は、伝えるための技術によって場所と時代を超えて伝播してきた。

伝えるための技術は様々あるが、最古のそれには、いまはもう直接触れることができない。歌と踊りという保存ができないものだったからだ。しかし、文字が生まれ、印刷が誕生することで、土地や時代を超えて多くの知識の伝達が可能となった。世界最古の文字体系は、紀元前4000年後半に古代メソポタミアのシュメールで発明されたと考えられている。印刷の原型である印章(ハンコ)は、文字が文字体系に発展する以前から存在し、紀元前7000年に使用されていたとみられる印章が北シリアで発掘されている。

それから8000年近く経った770年に、書籍の印刷が始まる。日本の法隆寺に残された百万塔陀羅尼ひゃくまんとうだらに(平定祈願の経文)が、現存する最古の木版印刷物と言われている。11世紀になると、文字単位を組み合わせて使用する活版印刷が中国で生まれ、1445年頃にドイツの金細工職人ヨハネス・グーテンベルクによって金属を用いた活版印刷の技術が発明される。

言葉が生まれ、文字がつくられ、印刷へと至る。このよくある知識の伝達技術のストーリーには、もうひとつ大切な、そして見落とされがちな存在がある。1604年にイギリスのロバート・コードリーという人物によってつくられたその存在がなければ、私たちは知識の伝達どころか、文字の扱いにも困ることになっただろう。それは、「Table Alphabeticall」という1冊の小冊子──いわゆる「アルファベット順単語帳」だった。

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