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98 アンリアルな風景 〜 CG作品『Waiting for』から考える


イントロダクション

このテキストでは、技術的な新規性が注目されやすいCG(コンピューター・グラフィックス)に対して、そのメディア固有の表現についての考察、すなわちCGの表現論を立ち上げることを目的としている。その背景には、アーティストとして活動している筆者が、2021年に初めてCGアニメーション/ナレーション・パフォーマンス作品の『Waiting for』を制作・発表したことがある。

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原田裕規『Waiting for』(2021年)

このテキストの内容は、同作の制作過程で書き溜めたノートがベースになっているが、その性質上、ときには飛躍のある論理展開も見られるかもしれない。しかし、まだ見ぬCG表現論の素地を整えるためにも、そうした飛躍もある程度は必要だったと判断している。まずは、『Waiting for』の概要を説明することから始めてみよう。

全編が3DCGから成るこの作品は、100万年前、もしくは100万年後の地球をイメージした3つの空間で構成されている。それぞれの空間はオープンワールドゲームのようにどこまでも広がり、その広大な空間のなかを仮想カメラが動き回ることで、アニメーションが撮影されている。映像の上には、20,464種の動物の俗名を読み上げるナレーションが重ねられている。この数は、現在地球上に生息している動物の(筆者が確認できた限りの)全種数(※1)であり、すべて読み終えるのに必要になった33時間19分にわたり、筆者自身がほとんどノンストップで朗読した。したがって、作品全体の長さも33時間19分となっており、3DCG作品としてはあまり類例のない長編作品となっている。

なぜ、このような構成をとることにしたのか。そのわけは、この作品の制作過程で直面したいくつかの課題に応えていくなかで、半ば必然的にこの構成に落ち着いたからだと言うことができる。それでは、作品の制作過程で直面した課題とは何だったのか。それはひとことで言えば、事物のビジュアライゼーション(可視化)に特化した3DCGというメディアに、いかにしてリアリティ(実在感)をもたらすかということにまつわる課題だった。
したがって、このテキストの骨組みには、ビジュアライゼーション(可視化)とリアライゼーション(実在化)というふたつの概念が横たわることになる。ちなみにCGというカテゴリー自体はとても広大で、全体の見取り図を描くことも容易ではないが、本論では、とりわけ人間の空間認識にかかわるCG表現に着目している。

ビジュアライゼーション/リアライゼーション

まずは大きなスケールの話から始めてみたい。2011年に出版され、世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』(河出書房新社)は、約7万年前に起こった「認知革命」にスポットを当てた書籍だった。
かつて地球には、私たちホモ・サピエンスのほかにも、ネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの多様な「人類」が存在していた。しかし、ホモ・サピエンスのみが経験した認知革命によって、私たちの祖先はまたたく間にほかの人類を「大量虐殺」し、地球上から絶滅させてしまったという。いまのところ、この革命がなぜ起こったのかは明らかになっていない。しかし、この革命が可能にしたことはある程度明らかにされている。それは「虚構の発明」と呼ばれる出来事だった。

認知革命以前のホモ・サピエンスは、集団で行動する場合でも、最大で150人程度のグループを形成するのが限界とされていた。この「150」という数字は、実際に互いに顔を合わせ、連帯することが可能な人数のことである。
しかし「虚構」という概念が生まれたことによって、ホモ・サピエンスは何千、何万もの人間から成る巨大なグループを形成できるようになった。「神」という虚構のもと、あるいは「国家」という虚構のもとに、実際に顔を見たこともない人々が連帯できるようになったのである。この本で言われている「虚構」とは、自然崇拝などのプリミティブなものから、宗教、国家、貨幣といった文明的なものまでを含んでいる。人々が規律的に行動するための社会システム全般とでも言うべき幅広い概念だろう。

そして、ここから本論の議論がスタートすることになる。まず、私たちの祖先はどのようにして、何千、何万もの人々と虚構を共有することができたのだろうか?
最初に思い浮かぶ手段は、口承である。話し言葉によるコミュニケーションには何の道具も要らず、身体ひとつで行なうことができる。さらに、目に見えないもの(=見たことがないもの)を想像力で補い伝えることも可能だ。それゆえ表現の幅が広く、世界中に口頭伝承による神話や伝説が存在することになった。デメリットは、対面でのコミュニケーションが基本になるため、大勢の人々に情報を伝達することが難しいことだろう。
それに対して、絵や記号などを用いたコミュニケーションも存在している。表意文字など、元来文字は絵と不可分なものでもあったため、広義の「書き言葉」とすることができる。木片や石版など、何らかのメディアを必要とするが、それによって特定の時間や空間を超えて多くの人々に伝達できるという利点がある。

なぜ、CGを語るうえでこうした話が関係してくるのだろうか?
まず前提として、人はCGを見ること(=視覚)以外で知覚することができない。ごく当然の事実だが、CGは聴くこと(=聴覚)も触れること(=触覚)も嗅ぐこと(=嗅覚)も味わうこと(=味覚)もできない。加えて、CGが視覚に特化したメディアであるということは、CGが非物質的なメディアであることも意味する。たとえば、油彩画は視覚芸術でありながら、キャンバスや絵の具という物質を伴うため、実際には表面の質感も匂いも味もある。とくに触覚的な情報は見るだけでもある程度わかるため、表面の質感をつくり込むことも油彩画にとっては重要な要素になっている。それに対してCGは物質を伴わないため、触ることができないビジュアライゼーション(可視化)に特化したメディアであると言えるのだ。
また、次のように言い換えることもできる。CGと人間の間には、つねに一定以上の距離が存在している、と。先述したように、CGが非物質的なメディアであることは、私たちがCGに触れられないことを意味する。「触れる」ということは、身体と対象の距離がなくなるということだ。もちろん、モニターやスクリーンに触れることはできるが、それは「CGに触れること」ではない。むしろそれらに触れれば触れるほど、CGとの間には絶対的な距離が存在していることがわかるだろう。
したがってCGは、ビジュアライゼーションに特化した「遠くにあるメディア」であると言うことができる。こうした特徴は、いかにしてCGに「触れているかのような感覚」、すなわち実在感(リアリティ)を帯びさせるかという課題を生み出すことになった。以上のことから、このテキストでは次のような図式に沿って議論を進めていくことにする。

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