これからの時代のオリジナリティについて話そう 〜 “著作性”とは何なのか?
美術家 原田裕規 × 写真家 Gottingham
『広告』著作特集号イベントレポート
3月26日に発売された雑誌『広告』著作特集号にかかわりの深い方々をお招きし、オンラインでのトークイベントを開催しました。今回は、6月12日にSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)の主催で行なわれたイベントレポートをお届けします。「写真」という表現手法で作品を生み出している美術家の原田裕規さんと写真家のGottingham(ゴッティンガム)さんをゲストに迎え、編集長の小野を交えながら、これからの時代における著作性について語り合いました。
似たもの同士、ふたりの作家
小野:原田さんとゴッティンガムさんは、もともとお知り合いなんですよね。自己紹介というより、お互いに紹介してもらうほうがいいかなと思うのですが、まず原田さんからゴッティンガムさんについて、ご紹介いただけますか?
原田:ゴッティンガムさんと最初にお会いしたのが、2019年。恵比寿のCAGE GALLERYというギャラリーでゴッティンガムさんが展示をされていて、そのすぐあとに僕が展示することになったのがきっかけでした。最初は商業写真を撮られている方なのかなと思ったんですが、作品を知るにつれて、いい意味でひとつのカテゴリーには納まらない曲者だということがわかってきました。今日はその曲者性についても掘り下げていけたらいいなと思っています。
小野:意外とおふたりは古い仲ってわけでもないんですね。でも、どちらも話し出すと長くなる印象があって、気が合いそうと思っていました(笑)。ではゴッティンガムさん、お願いします。
ゴッティンガム:共通の知り合いが多く、原田さんの話はいろいろと聞いていたし、原田さんが書かれた文章も何度か読む機会があって、出会う前にも知った気になってました。佐藤拓真さんというアーティストが2017年に『WYSASSS』という作品集を出したんです。そのスペシャルバージョンに、僕と原田さんが寄稿文を寄せていて。そこで妙な親近感というか、いっしょのプロジェクトに参加した気持ちになっていました。
原田:僕もその時期から、ゴッティンガムさんの名前を聞く機会が増えてきて。僕は2017年から写真のプロジェクトを始めたんですが、そのころからだんだんとお互いの活動領域が近づいてきて、今回の『広告』でいよいよ重なったような感じがしました。
ゴッティンガム:「心霊写真」(※1)という原田さんの作品タイトルや、テキストで見るメタ的な視点などからの想像で、強い意志をもっていて、厳しい方なのかなって思ってたんですよね。でも実際会ってみると、何でも受け入れてくれるような人でした。
作品にオリジナリティはある?ない?
小野:今日のトークテーマは、「これからの時代のオリジナリティについて話そう」となっています。そこから「著作性とは何なのか」を考えていきたいと思います。いきなりですが、オリジナリティなんてないという前提に立つと、ものづくりの現場では先行する作品からインスピレーションを受けたりオマージュをしたり、過去との対話、つまり“コラボレーション”がつねに行なわれているんじゃないかと思うんです。
実は今回の著作特集号にも、コラボレーションというキーワードがある気がしています。ゴッティンガムさんは、契約書のなかではっきりと「コラボレーション」という言葉を使っていますよね。原田さんも、捨てられるはずだった他者の写真を使って作品をつくっています。そこでおふたりに、コラボレーションというものをどのように捉えているのか、まず聞いてみたいと思います。
ゴッティンガム:オリジナリティがないという前提に立つと、という話ですが、僕はある、と信じてるんですよね。
小野:おお、オリジナリティをどういうふうに捉えられているんですか?
ゴッティンガム:何だろう……木を見て森を見ず、という言葉をあえて使ってみます。森を見ると木の葉なんてちょっとの違いでしかなくて本質が見えないと思われるけど、どんどん深堀りして葉っぱの細胞レベルまでいけば、なんらかの決定的な相違が見えてくる。しかも、それは数分前とあとでも違う。科学の世界だと、細胞を見ると生態系までわかるって言うじゃないですか。そんなふうに小さな単位のオリジナリティを追求して見ていくと、逆説的に個人を超えて人間とは何か、が見えてくる。
小野:なんかいきなり難しい話になりましたね(笑)。作品制作にあてはめるとしたら、どんな考え方になるのか聞いてみたいです。
ゴッティンガム:巨人の肩に乗るというか、誰かのオリジナリティを誰かがまた更新していくみたいな。そういう繋がりのなか、過去につくられたものを更新していった結果、生まれるものが作品なんじゃないでしょうか。そしてそれはほかと比べると、やっぱり差がある。
小野:いきなりポンと作品が生まれたわけではなくて、過去から少しずつ差分のあるものが生まれていったと。そのひとつがゴッティンガムさんの作品だったとして、それらが集まっていくとゴッティンガムさんのオリジナリティが見えてくるってことですかね。
ゴッティンガム:そうですね、そうかも。
小野:ゴッティンガムさんは、すべての作品を自分ひとりではなく、コラボレーションしながら制作していると捉えているのが特徴です。そしてその意思表明として、著作特集号の「創造性を高める契約書」という記事にも掲載している契約書をつくりましたよね。そのなかで、法律的な規定だけではなく、一方的な業務委託の形式を超えたコラボレーションを構築する、という目的を提示しています。コラボレーションについては、どう考えていますか?
ゴッティンガム:普段の自己紹介では、コラボレーションだけではなく、コミッションという言葉もセットで使っています。いわゆるコミッションワーク(委託制作)が、コラボレーションワークにもなり得るんじゃないか、という仮説を持っているからなんですが。また、契約書では一般的に発注者やクライアントと記すところを、“コラボレーター”としています。これは法律家の水野佑さんのアドバイスによるものですね。
ゴッティンガムさんのコラボレーション契約書(一部抜粋)
作者性を曖昧にする共同制作
小野:原田さんは、自分で何かをつくるというよりは、他人が撮影した写真と対話することが作品になる。他人の著作物とも言える写真とコラボレーションしているな、と思ったのですが、そのあたりどういう意識で制作されているんでしょうか?
原田:もともと僕の場合は「ここが美術の外縁だ」と言える部分を追求していたところがあって。美術としては“ぎりぎりアウト”のものに興味があって、最初に取り上げたのがクリスチャン・ラッセンでした。ラッセンは主にアートの領域からは「イラストだ」「デザインだ」と揶揄されることが多いのですが、そのことを言い換えると、ラッセンの絵にはある種の作者性が認められない、それゆえに“アウトだ”とされていたと思うんです。そう考えたときに「作者性」というキーワードが浮かび上がりました。
その次に目をつけたのが「写真」全般です。とくに興味深いと思ったのが、現代アートの世界でファウンド・フォトと呼ばれている実践で、それは作者ではない誰かが撮った写真に対して、異なる文脈をつけて提示し直すというもの。そのときに当然「それは創作なのか?」ということは問われてもおかしくないと思うんですが、なぜかそういう実践に対して言葉が追いついていないような気がしたんです。
小野:たとえばどういうことですか?
原田:映画だと、監督や音楽家やデザイナーなどいろんな人が含まれつつ、ひとつの大きな作品を重層的につくっています。一方でアートの場合は、作者という存在の占める地位が比較的強く、それが先ほどのラッセンやファウンド・フォトの問題にも表れていると思いました。
ですがいまはアートだけに留まらず、社会全体において異なる主体がいかに共生していくのかは、具体的な課題になってきています。ウィルスとの共生だけでなく、政治や自然災害など、いろいろな場面で「コラボレーション」のあり方が問題になっているなと。なのでいまやっと、僕自身もコラボレーションという問題に実感をもって取り組み始めている気がしています。
小野:なるほど。美術界の端っこを追い求めた結果、たまたま出会ったのがコラボレーションで、さらに時代がそういうものを必要としているんじゃないかと。
オリジナリティをはかる純粋/不純という尺度
小野:原田さんはオリジナリティについてはどう考えていますか?
原田:ゴッティンガムさんの「オリジナルはあると思う」という話を聞いて、いきなり核心からきたな! と思ったんです。先ほどは普通に話を進められていましたが、そもそもゴッティンガムさんっていわゆるわかりやすい「アーティスト」ではないですよね。作者とみなされる主体と作者ではないとみなされる主体を行ったり来たりしているのがユニークで、そのときにこの人はそもそも「オリジナル」について懐疑的であるか肯定的であるかは、僕にとっては謎だったんです。それと関連して、以前ゴッティンガムさんとお話をしていたときに、「ファインアート」の話をされていたのがおもしろくて。ゴッティンガムさん、その話をしてもらえますか?
ゴッティンガム:著作特集号の記事にも書いてあるんだけど、「商業写真家ですか? 芸術写真家ですか?」と質問をされることが多かったんです。なんで人がそういう問いを立てるかというと、美術作品とは、自発的に個人の内側から湧き出たものという認識があるからで、商業と区別してるからなんですよね。その認識をあらわしているのが、純粋芸術(ファインアート)と呼ばれるものなんです。でも現代で、内向きな情動みたいなものだけを出発点に作品制作を続ける作家って、どれほどいるんだろう? 美術史上でも、社会や他者に関与するような表現やそれを指す言説や活動形態もあるし、なにかしら呼応し合うものがあるわけで、コラボレーションしている。そのとき、「純粋」って言えるのかな、と。
原田:ファインアートについては、純粋/不純という尺度がある気がするんです。先ほどのラッセンの場合は端的に“不純なもの”と扱われていたところがあって、美術としては「純度が低い」と、まるで穢れのように忌み嫌われていました。そしてそれって、いまでいうとウイルスのような存在に対して人々がもつ不浄の感覚にも通じるニュアンスがあると思っていて。
ゴッティンガム:そうそう。
小野:純度が高ければ、オリジナリティがあると思われていると。
原田:そうです。僕は子どものころはずっと油絵を描いていたんですが、美術の先生に「こうしろ」と言われて画面に筆を置かれる場面がたまにあって。それが自分にとっては耐えきれない出来事だったんです。ある意味でキャンバスが穢れてしまったと感じて、絵を塗りつぶしてしまったこともありました。さすがにいまは「若かったな」と思うのですが(笑)。ファインアートにおけるコラボレーションを考えるときに、あの強い拒絶反応は、ついつい思い出してしまう感覚です。
それに対してデザインの場合は、たとえばグラフィックデザイナーと写真家が共同して雑誌をつくることをわざわざコラボレーションとは言わないくらい、それが自然に成り立っている。仮に純粋芸術の領域でコラボレーションが成立するとしたら、ある純粋なものと別の純粋なものが共生できる思考の枠組みが必要なんじゃないでしょうか。僕の場合は、美術のなかでどういうふうにコラボレーションの形態をアップデートできるのかが、自分自身にとっても大きな課題なんだなとあらためて思いました。
作品はどこからやってくるのか
作者の経緯をあらわす“来歴”
ゴッティンガム:著作特集号の打ち合わせをしていたとき、作家主義と作品主義の違いの話がおもしろかったんです。オリジナリティを考えるときに、作家主義なのか作品主義なのかで、捉えてるものが全然違うんじゃないのかなって思いました。
小野:作品が完成した瞬間に作者の手を離れて独立するのか、もしくは、俺がつくったんだよと署名が入ることで、つねにつくった人たちの存在が作品について回るのか。当然、両面あると思うんですけど、自分がつくったぞということが重要なのか、作品が独立していることが重要なのか。おふたりはどういう考えをお持ちですか?
ゴッティンガム:すごく難しい質問で、その問題について僕は考えない日はないってくらい考えてます。もちろん、できあがったものにはオリジナリティがあってほしいと願っていますが、それは“親”の心理としては当然ですよね。仮に僕自身がオリジナリティのない人間だとしても、誰かと組んだり、何かの条件でつくられたことで、オリジナリティがある作品が生まれればいい。いまもまだ心が揺れ動いてるんですけど。
小野:ゴッティンガムさんの契約書では、しっかりと著作者のクレジットの表記に関するルールを提示していますよね。そのとき、作品と著作者が結びつくことの重要性ってどのくらい考えられてます? クレジットをつけるいちばんの理由って何でしょう?
ゴッティンガム:さっきの話と矛盾するところがあるかもしれないけど、僕は作品と著作者は紐づけておきたいタイプ。それは、写真は文脈で見え方が変わるメディアなのと、自分のキャリアパスが王道ではないとか、そういうところからくる部分もあるのかもしれないです。
ただ僕が示しているクレジットの表記には、著作権のためだったり作品と著作者の関係性を示す以上に、写真がどこから生まれてきているのかという“来歴”を表現したいからでもあるんです。写真ってどうしてもいろんな場所でいろんな使われれ方をするんだけど、どういう経緯で誰から生まれてきたかを残しておきたい。
小野:最初のオリジナリティの話の「過去を更新して作品をつくる」という部分が、クレジットの“来歴”と近い気がして、おもしろいですね。たとえば、論文は過去のものを読んで新しく書き足したり反論したりしていく。なので、名前がどんどん積み重なっていく文化がある。そういうのに近いのかなと。ある種、歴史に名を刻むというよりは、つくったものへの責任として、署名をしているんですかね。
ゴッティンガム:そうですね。やっぱり作品を生んだ人の名前を残すことで、責任を持ちたいみたいなところはありますね。
作品を規定するものは何か
誰を作者と呼ぶべきか
小野:原田さんは作品と著作者の関係性ってどんなふうに捉えられていますか? 捨てられてしまった写真を集めて作品をつくっていますよね。
原田:僕の場合は、そもそも作品と呼んでいいのか、という疑問を投げかけているところがあります。「写真の山」というタイトルで、引き取り手のない写真をこれまでに何度か発表しているのですが、展示をするたびに「作品」だったり「資料」だったりと扱いを変えてきたんですね。
原田裕規「写真の山」(2017年〜) Photo:Katsura Muramatsu
また別の話で、数年前にアートアーカイブセンターで働いていた時期があったんですが、そのときにある写真作家のプライベートな写真を大量に目にしたことがありました。それを見て、写真家が撮ったプライベートフォトというのは、扱い用によっては「作品」にも「資料」にもなりうる際どい存在だなと思ったんです。
小野:確かに。
原田:しかも、明らかにその人の作風とは異なっていても、「未発表作品です」と言って発表することが制度的には可能になっている。アーティストが一般の人々の写真に対して同じ手つきで振る舞うと“ファウンド・フォト”と都合よく言われたり、キュレーターの場合だと”発掘“と都合よく言われたりします。ですが、写真の撮影者が誰であるかはもちろん、誰がその写真を「作品」とみなしたのかも重要な情報になってくると思うんですが、いまのところキャプションに明記されるのは「作品名」だけですよね。この状況をどう考えて、制度のレイヤーを増やしていくのか。
僕個人で言えば、ファウンド・フォトという言葉を使わないようにしていて、その判断保留の状態をできるだけ長く保ちながら、その決定のプロセス自体を作品として見せていきたいと思っています。
小野:原田さんがつくっているものが仮に作品ではない場合は、なんて呼ぶのか気になります。
原田:感覚的には「成果物」くらいで、やっぱり「作品」という言葉には価値判断が含まれているじゃないですか。「これは作品だ」と言ったときに、“それほど素晴らしいもの”というニュアンスが含まれてきてしまうので。でも感覚的にはもっとフラットなものという気がしています。
オリジナリティは先人の歴史を引き継ぐ過程から生まれる
小野:僕自身はプロダクトデザインをしたり、『広告』という雑誌をつくったり、もともと学生時代は建築をやったりして、ずっとものづくりをしてきました。当然オリジナリティを追求する戦いがあって、世の中にないものをつくりたいという欲求があるんですね。
とはいえ、ものをつくることの目的に、オリジナリティを求めることだけがあるわけでもないなとも思うんです。目的は別にもあるなと。これまでオリジナリティの話ではあったんですけど、おふたりが何かを生み出すときのいちばんの目的は何なのか、ここでお伺いしてみたいです。
原田:安っぽい言い方になってしまいますが、実感としてはバトンを渡そうとしている気がします。自分が美術を始めたきっかけも、ある美術館で見た作品に心を動かされて、「世界にこんなものがあるんだったら、無視するわけにはいかない」みたいな、タスク的な感覚を持ったんですが、つまり動機としては外的な要因が大きいです。
ある共有されたビジョンを誰かから受け取って、自分の形にアウトプットし直して、誰かに渡す感じ。そういう一連の運動のひとコマを担っているような感覚があるので、自分がやっていることがオリジナルであるという実感よりは、誰かから受け取ったものを自分なりに変換して出し直しているような感覚をもっています。
ゴッティンガム:それ、同感。
小野:おもしろいですね。動機として有名になりたいとか儲けたいとか、何か世の中を驚かせたいみたいな俗っぽい気持ちも普通はあって、僕はそういう気持ちも結構あるんですけど(笑)。そういう人が多いなかで、バトンを渡すって少し達観しているというか。原田さんが主体となっているというよりも、どこか引いて見てますよね。
原田:確かに……。でも、先行する何かからの影響なしに、ものをつくる体験ってあり得るんですかね? たとえば作品をつくり始めるきっかけも、先行する何かに対する感動がないということがそもそも想像しづらくて。みなさんはどんな感じなんでしょう?
ゴッティンガム:やっぱり僕も憧れから育ってきた人間だし、いまも誰かに憧れたいという気持ちは持っています。あとはひとりで生きているのではなく、関係性のなかで生きてるから、よりどころとして繋がりや文脈はすごく意識していて。バトンを渡すという意識を僕に置き換えるなら、自分の活動や作品を置きたい文脈のなかで、どのように表現に向き合い、批評する/されるか、ということかなと思います。憧れる先人たちがいて、それを未来に繋ぐ人が自分という感覚。
原田:やっぱりゴッティンガムさんも、引いて見てるところはあるんですね。
小野:いま、参加者の方からチャットでコメントがきています。「バトンを渡していくサイクルのなかにいて、個人レベルの小さな変化が未来の作家や作品に組み込まれていくことがあると思いました」。確かに、そうですね。
原田:オリジナリティって言っていることも、バトンそのものよりは、受け渡し方の身振りみたいなものに見出すべきかもしれないですね。バトンの持ち方や渡し方が独特だけど、持っているバトン自体は変わらないみたいな。でも、世の中的には、どちらかというとバトンそのものがオリジナリティだと思われている気がするんですよね。「感性がいいね」とか「よくそんなこと思いついたね」とかって、つくり手なら誰でも言われた経験がある言葉だと思うんですけど、実際にはひらめきよりも、そのアウトプットの仕方でオリジナリティを追求している気がします。
ゴッティンガム:確かに撮影のライティングとかプロップの使い方とか、全然新しくないし、オリジナリティがないものかもしれないけど、それを何に対して使ったのかということでひねりが生まれて、オリジナリティが見えてくるっていうのはありますね。
小野:バトンの受け渡し方とか制作の過程にこそ、オリジナリティが宿っているわけですね。
このまま夜更けまで話せそうですが、時間が来てしまったので、残念ですが本日はこのあたりで終了とさせていただきたいと思います。おふたりの活動も、みなさんぜひご注目ください。ありがとうございました。
文:酒井 瑛作
原田 裕規(はらだ ゆうき)
美術家。1989年山口県生まれ。社会の中で「とるに足らない」とされているにもかかわらず、広く認知されている視覚文化をとり上げ、議論喚起型の問題を提起するプロジェクトで知られる。主な個展に「One Million Seeings」(KEN NAKAHASHI、2019年)、「心霊写真/ニュージャージー」(Kanzan Gallery、2018年)、主な著作に『ラッセンとは何だったのか?』(フィルムアート社、2013年)など。
Gottingham(ゴッティンガム)
写真家。1982年生まれ、東京在住。国内外のアートセンター、研究開発機関、企業、デザインスタジオとのコラボレーション/コミッションワークを中心に活動する。あらゆる既存の文脈を自身のマナーに引用しながら、「イメージによって、いかに『他者の物語』を再構築できるか」を問いとする。最近の展覧会に「東京大学生産技術研究所70周年記念展示 もしかする未来 工学×デザイン」(国立新美術館、2018年)、共著に『クリシュナ—そこにいる場所は、通り道』(アーツカウンシル東京、2018年)など。
酒井 瑛作(さかい えいさく)
ライター/エディター。1993年生まれ、郊外育ち。立教大学社会学部卒業後、2017年よりフリーランスのライター/編集者として活動。主に写真家へのインタビューを行い、現代写真、ファッション写真を中心に記事を執筆。その他、ウェブメディアの立ち上げ、アーティストコーディネーション等に携わる。
脚注
※1 「心霊写真」……原田裕規さんが2012年より開始したプロジェクト。2017年以降は、引き取り手のない膨大な数の写真を収集しながら、そこに寄り添うような視点で作品を生み出している。
CC BY-ND 4.0(表示-改変禁止4.0国際)
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【イベントの動画を販売中】
SPBSのウェブサイトにて、6月12日に行なわれたイベントの動画を販売しています。ぜひご視聴ください。
[視聴チケット代] 1,650円(税込)
[チケット購入方法]下記のSPBSのオンラインストアより
http://store.shibuyabooks.co.jp/item/5769794222436.html
【関連記事】
雑誌『広告』著作特集号に掲載されているゴッティンガムさんへのインタビュー記事を全文公開しています。また、同じく著作特集号に掲載されている原田さんのアートワーク「One Million Seeings」の制作意図や背景について、原田さん自ら解題した記事をnote限定で公開しています。
43 創造性を高める契約書
▶︎ こちらよりご覧ください
著作の重量
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