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「じぶん探し」の次の若者モードとして「ひきこもり」の適応形態あたりが新しいと思う(細井元編集長イチオシ記事)

斎藤 環さんにききました

ききて:(斎藤さんと同い歳で「80年代型じぶん探し系」の典型と自認する)編集部

──● 斎藤さんは80年代が境界例の時代で、90年代が多重人格の時代とおっしゃっていらっしゃいますが、その二つはどう違うんでしょう。

斎藤●「境界」を意図的に乗り越えるかどうかの違いでしょうね。意識的に境界を乗り越える身振りが「80年代的」だとすると、否応なしに乗り越えさせられるというか、その身振りが自然体にみえるほど「自動化=不随意化」したのがその後の世代です。
80年代はパフォーマンスの時代でもある。軽やかに境界を横断してみせる身振りこそが、主体を輝かせると信じられた。90年代以降そういう幻想が薄れて、むしろ意識せずに自然に境界を越え、異なった顔を使い分けている人が多くなったように思う。それが不随意になされる点こそが「多重人格的」なんです。同時に「無意識」の現れ方がすごく直線的・表層的になっていて、逆に分析しにくくなった。80年代には有効だった「仮面」と「素顔」の対比が無効になって、90年代に入ってからは「顔」そのもののリアリティが問われているのかもしれない。私が『文脈病』(青土社)で強調したかったのは、この点です。

──● 意識的に顔を使い分けたのが80年代で、ほとんど無意識に顔を使い分けるのが90年代だとして、いずれにしろ、ほんとうのじぶんはどこにあるのかという問いが出てきてしまう。つまり、そこにはつねに、じぶん探しという問題が背中合わせにあるということですね。

斎藤● そうですね。80年代以降、じぶん探しに癒しを求める人がどんどん声を大きくしていったと言えるでしょう。

──● いまの多くの若者を「じぶん探し系」と括ることができる一方で、斎藤さんが注目される新しいタイプが「ひきこもり系」ですね。

斎藤● 青少年のひきこもり事例という問題は、もっともっと警鐘を鳴らさなければならない、非常に根深い今日的な社会システムの病理です。今後こうした事例が実数として増えていくのは間違いないでしょう。ただ、そろそろ次の若者モードが出てきてもいいのかなという意味では、ひきこもりの適応形態あたりが新しいのかもしれないという気がするんです。

──● 斎藤さんご自身が、その適応型ひきこもり系の一例ではないかと……(笑)。

斎藤● 違うと言えば嘘になりますね(笑)。ひきこもりの適応形態というのは、じぶんの枠組み(フレーム)をまず確保して、そのなかで生起するものをおもしろがる姿勢なんですね。そういうフレームがあれば、じぶんを探す必要はなくなる。僕の場合は、臨床というフレームがまずあって、そこから出まいという姿勢が基本にあります。

──● ひきこもり系の人は「じぶんって何?」という問いを発することがないんでしょうか。

斎藤● ないと思います。じぶんのフレームについては、良くも悪くも諦めている。というか、じぶんはこの枠から逃れることはできないことを知っているんでしょうね。僕たちが治療しているひきこもり事例では、この枠が気に入らないと言いつつ葛藤するわけです。こちらは「不適応」のパターンですが、ならば適応形態もあるだろうと。つまりフレームについて葛藤するのをやめ、むしろ徹底して有効利用する戦略ですね。そういう方向性が出はじめているように僕は思うんです。

──● じぶん探しをしている人は、その枠が定まらないということでしょうか。

斎藤● フレームが見えないんですね。じぶんの枠が見えてないから、いろいろなフレームを外から持ってきてはじぶんに当てはめて、これもダメ、あれもダメということを繰り返している感じでしょうね。その、探すこと自体がポストモダン的な身振りであると思われているんでしょうし。

──● 結局、じぶんの枠組みを見つけられずにさまよいつづけることに。

斎藤● 実は、それも一つのフレームになっているんですけど。

──● 枠を探しつづけるということが、一つの枠組みになっていると?

斎藤● ええ。そのことを本人は知らないだけなんですね。

──● でも、知っちゃったほうがラクになれるんじゃないですか。

斎藤● 知りたくないんですよ。知っちゃったらおしまいだとどこかで思っているから。もう、じぶん探しが趣味化しているというか……

──● ライフワークですね。

斎藤● そういうパターンもあり得ると思います。

──● その一方で、じぶん探しをする人は、「じぶん探しなんかやめなさい」と言われると、あっさり納得しちゃうようなところもあるんじゃないでしょうか。

斎藤● じぶん探し系の人は、けっこうわかった気になりやすいところがあって。それこそ、まさにじぶん探しのゆえんだと思うんですけどね。あるところでエヴァンゲリオンについて論じたときに、僕もあえて挑発的に、もうじぶん探しなんか無効なんだと書いたことがあるんですが、「それを読んでハッとしました」とか言ってくる患者さんが実際にいたりするわけです。あのマニフェストについては反発した人も多かったし、反応がさまざまで非常におもしろかったんだけれども、共感してくれた人は、どっちかというと、やっぱりじぶん探し系だったかな(笑)。
 つまるところ、じぶん探し系の人たちは空虚さを求めているというか、どこにあるのかわからない空虚さをはっきりさせたいんじゃないでしょうかね。はっきりさせるも何も、もともと主体というのは空虚なんだよというのが精神分析の一つの立場ですが、何かイメージのレベルで空虚なものを欲しているというのが昨今の風潮のような気がします。たとえば不況だ不況だとみんな騒ぎ立てますが、どこかで不況という空虚な幻想を楽しんでいるようにもみえませんか。

──● ひきこもり系の人たちは空虚さとは無縁なんでしょうか。

斎藤● いや、それどころか、まさに彼らはじぶんが空虚だという経験をしつつあるわけです。

──● じぶんが空虚だという経験をしている?

斎藤● したことがあるのか、いままさにしつつあるのか。空虚さを直に経験したかのような、妙な言い方をすると、「実体的な空虚」が得られているかのような…そんな経験なんですけどね、ひきこもり系に関しては。実際にひきこもっている若者たちは、まさにじぶんが空虚だという思いに苦しめられています。言い換えると、じぶんの空虚さこそがもっともリアルなんですよ。ものすごく苦しいんですが、苦しみつつ満足しているとも言える。満足しているから、そこから動けない。意地悪な言い方ですけど、彼らは満足しているんですよ。

──● じぶん探し系の人たちが絶対味わえないような経験をしていると。

斎藤● 味わえないでしょうね。じぶん探し系の人たちは、その意味で「リアルな空虚さ」の経験がないんです。じぶんを探しているふうで、結果としてその行動からは、じぶんを空虚にできるものを探し求めているとしか思えないところがあります。

──● じぶんを探していると言いつつ……

斎藤● じぶんを空しくするものを探しているのとイコールにみえるんです。だから、そういう空しさの同一体験みたいなものを感じるとコロッとまいってしまう。それで新興宗教みたいなところにいっちゃうのが……

──● じぶん探しの最終地点。

斎藤● そうです。一方、ひきこもりの人は、ほんとうに宗教にはいかないんですよ。すごく苦しんでいる人だって、いきそうで案外いかない。そういう経験を求める必要がないからなんですね。じぶんが空しいことをイヤというほど知らされているというか…それは決していい経験じゃないんですけど、すごくリアルなんですよ。最初にフレームの話をしましたが、じぶんの枠というのは、その空虚さのイメージと言い換えられるかもしれません。

同調圧力に適応した人は
じぶん探しへ
できなかった人は
ひきこもりへ

──● 80年代以降のじぶん探し系にとっても、いまのモードのひきこもり系にとっても「空虚」がひとつのキーワードになることがわかりましたが、60年代的な旧価値で生きてきた人たちの場合はどうなんでしょう。空虚さというか。欠如感が単純に物質的に満たされることで充足していられるようにもみえますが。

斎藤● 物質的に満たされれば、ほんとうに主体すらも満たされたかのように錯覚できてしまうというところが、60年代世代の、あの磐石の自信を支えているのかもしれませんね。ところが80年代以降は、そういう実体的基盤が見出しにくくなる。欠如することを知らないから、欠如を埋められたという感覚ももてないわけですよね。

──● だから、じぶん探しという名の空虚さ探しをしてしまう。

斎藤● 
あるいは、空虚さのイメージをもつことで、それを埋められたと錯覚できるのが、ひきこもりの適応形態なんでしょう。

──● われわれの世代となると、もうほとんど物質的欠乏は知らない。

斎藤● 世代間の落差ということでいうと、80年代と90年代の違いというより、物質的欠乏を知っている世代と知らない世代の違いのほうが決定的だと思います。

──どのあたりが分かれ目なんでしょうか。

斎藤● いまの50歳ぐらいで切れるんじゃないですかね。40代より下の世代は、もはや成熟できないんじゃないかな。

──● 成熟できないというと?

斎藤● 成熟するには、物質的欠乏が必要なんですよ。

──● 物質的欠乏はない。

斎藤● ないから、もはや成熟できないんですよ。だから、このセンスでいくんですよ、これからも(笑)。

──● ということは、われわれはずっと成熟できない、つまり若者でありつづけるしかないということですね。

斎藤● 成熟は不可能であることをさしあたり代償するのが、いわゆる年功序列の対人関係でしょう。歳をとればとるほど成熟するに決まっているという、奇妙なイデオロギーですね。とっくに無効化していいはずなんだけれども、たとえば女子中学生の先輩後輩のイジメの関係みたいなところに残っていたり、あんがい強力な伝統ですね。

──● どうしてああいうものが残りつづけるのかわからないんですが。

斎藤● 日本的な同一化のパターンだと思うんですよ。やっぱり同じ年齢という、横の関係に同一化が起こりやすい。同年齢というだけでグループができたり、年齢ごとに境界をつくって差別したり、みたいなものは非常にやりやすいんでしょう。

──● やりやすいことをやっちゃうんですね。

斎藤● やっちゃう。つい、そっちに流れていって、それでシステムとして安定しちゃうんですね。それがなくなったら、まったくアノミー状態というか、グジャグジャになってしまう。かろうじてそこで秩序が保たれてるから、学校が存続しているのかもしれない。クラスのなかではバラバラでもね。先生に楯突いても、先輩には逆らわないとかよく言うじゃないですか。
 学級崩壊とか言っても、問題を起こす子どもだって、やっぱり学校を必要としているわけですよ。先輩後輩の秩序にしても、子どもの安全保障なんですね。それが完全に崩壊することはないだろう。ただ、先生の言うことをきかない子どもは大量に増えるだろうと、それだけの問題でしょう。それ以外の価値基準が導入されていないから、そういう秩序はなくならない。ある意味で、逆に秩序志向を強めている部分もあるかもしれません。まだまだ個人がそれぞれの価値観で動けるほど強くなっていませんから。

──● 個人の時代とか言われてますが。

斎藤● 個人的な欲望という枠組みすらはっきり確立しているのかどうか。宮台真司さんじゃないけど、個人の欲望すらも、所詮は所属する集団内の同調圧力によって成立しているだけなんじゃないかと。コギャルのファッションに代表されるように、横並びでないと欲望すら成り立たない。かといって、それに反発するだけでは、不登校になるしかない。このあたりから、ひきこもり事例が出てくるわけです。同調圧力に適応できた人はじぶん探しにいっちゃうけど、ひきこもり系の人は不登校になるしかないという導線が早々と敷かれちゃうわけですね。そこでじぶんの価値基準を花咲かせられる人は、ひきこもり系の適応形態としてじぶんなりの表現ができるようになるのかもしれない。

──● ひきこもり系の台頭が、99年という時代を特徴づけているとも言えそうな気がしますね。

斎藤● 宮崎哲弥さんなんて、完全にひきこもり系ですよね。あの方自身も不登校だったと、どこかに書いてらしたけれども。

──● 最近、いい仕事を量産していますね。

斎藤● スタンスがはっきり定まったということでしょう。

──● ひきこもり系はスタンスが定まるわけですね。

斎藤● 定まると強いというか、量産態勢に入れるみたいなところがある。

じぶん探し系は
ひきこもり系に
憧れる⁉

──● 先日お会いした東浩紀さんも量産態勢に入っている印象がありました。

斎藤● 実は彼もひきこもり系なんじゃないかと。僕は強くシンパシーを感じるんですよ。次は、全然じぶんを出さない本を書くらしいですね。

──じぶんとは無関係なものを書いてみたいとか。

斎藤● それが、ぜんぶ出ちゃうんでしょうね(笑)。じぶんを出すまい出すまいとして出ちゃうのがひきこもり系であって。出そう出そうとして空疎な本を書いてしまうのがじぶん探し系、という対比ができるんじゃないかと思います。割り切り過ぎかもしれませんが、一般化できると思います。個性を主張したいのに無個性な表現になってしまうのがじぶん探し系の典型だとすれば、じぶんを出すまいとしているのに、なぜか滲み出てしまうのがひきこもり系の表現なんですよ。

──● そこで図らずも滲み出してしまうじぶんこそ、ほんとうのじぶん?

斎藤● さしあたり、そう言わざるを得ませんね。ただ、じぶんにみえるものはじぶんじゃないよ、というところで両者はきれいに重なるんですよ。じぶんを出すまいとしている人は、じぶんがみえているつもりだから出すまいとするんだけど、実はみえていないから滲み出しちゃうんですね。じぶん探し系の人はじぶんを出そうとするんだけど、そもそもじぶんがみえてないからそうするんです。どっちも勘違いしているという点では同じことなんですよ。

──● 勘違いなんですか。

斎藤● 自己イメージをつかみ損ねているということでは、両者とも同じなんです。

──● 自己イメージというものは誰にもつかめないと?

斎藤● つかめない。それが大前提なんです。それこそが空虚さの正体なわけです。自己イメージは語り尽くせないし、じぶんではつかめないよというのが精神分析の一つの前提であり、私の立場なんです。

──● そう言われると、逆にまた癒されちゃう気がするんですよ。

斎藤● じぶん探し系だから(笑)。
 自己イメージにかんしては啓蒙しても無駄、努力しても無駄というところがある。それを含めて成熟は不可能ということなんですね。そこを変えるには去勢されるしかないんですけど、去勢はじぶんではできないというのが、これまた精神分析の大原則。
 僕はじぶんの価値基準をいちばんはっきりさせてくれるものは「敵」の存在であると考えています。いまはその敵がみえにくい時代になっているんでしょうね。じゃあ、いま何が敵なのかということになると、あえて言えば、むしろ敵というのは「同一性」そのものなんじゃないか。たとえば教師がいかにも教師然と振る舞ったり、医者がいかにも医者らしい態度を取ったりというとき。こういうときに彼らはムカついたり、キレたりするのではないか。本人も同一性がイヤなんです。それこそまったりした日常にたいする苛立ちがあるんでしょう。同一性にたいして苛立っているわけだから、キレる子を導く方向性なんてみえなくて当たり前なんですね。

──● でも、いかにも僕って先生らしくないでしょ、みたいな振る舞いをするとよけいに嫌われる。

斎藤● それが「芸風」として定着していると嫌われるわけですよ。だから僕は、本音の先生が本音でぶつかってもダメだったという話を聞くたびに思うのは、たぶんその先生は本音のフリが芸風として定着しちゃっている人だったんじゃないかなと。金八ぶりとか何かそういう身振りが、生徒からみると非常にうざったいというか、「またやってるよ」というふうに見透かされてしまうんじゃないか。医師にもそういう人はいますし。もっと徹底的に、教師自身の立場も危うくなるぐらいまでじぶんを曝してつきあっていくと、子どもの気持ちを開くこともできるんじゃないかと考えています。

──● まさにそれは、いまの若者とわれわれ広告屋との関係にも置き換えられるような気がします。

斎藤● そうかもしれませんね。ともかく同一性をじぶんを守る保護膜として利用しているうちは、彼らと対話することなど不可能でしょう。じぶん本来のものを出して、じぶんの立場を危うくしながらがんばるしかないということですね。
 僕は芸風という言葉を重宝するんですが、蔑んだ意味でね。どんなにカッコよさげに思えても、芸風と言われちゃったらそこでアウト。もう、それをじぶんの同一性として利用していますよと見透かされちゃったわけですからね。……その芸風を楽しむのがオタクで(笑)。それに苛立つのが、じぶん探し系ということになるんでしょうか。

──● ひきこもり系はそもそも学校に来ない(笑)。

──● 東さんには芸風はなさそうですね。

斎藤● 東さんがされているのは、ある意味で本人がリスクを背負いこみながら展開していく戦略でしょう。それはおそらく、意図せざる結果を招いてしまう戦略なんですよ。ただ、この戦略については、けっこう本人は自信あると思うんですよね。うまくいくに違いないという根拠のない自信が。

──● そういえば、こんなこと言ってましたよ、「俺だったら買ってみたいよ、この本」って思えるようなものを出したいと。

斎藤● そう、じぶんを基準にできるんですよ。なぜじぶんを基準にできるかというと、じぶんのことが判らないから。判らないからこそ、その俺が欲しいものはみんなも欲しいに違いないというような確信を平気でもてる。むしろ明確な自己イメージをもってしまっている人にとっては、これはちょっと難しいかもしれない。じぶんがわからないけど満足しちゃっているというのが、ひきこもり系の枠組みですから。じぶん探し系の人は、じぶんについてかりそめのイメージをもっているんだけど、どうもこれは本当のじぶんじゃないみたいな、もっと別のじぶんがあるんじゃないかみたいな…かりそめゆえの不満が、どうしてもついてまわるんでしょうね。
 ひきこもり系の人は、みえてないイメージがあるゆえに、逆にそれに即して素直につくったものが売れてしまうようなところがある。東さんの本は、いい意味で、じぶんがみえてない人がつくる最上の創造物という感想をもちましたね。

──● 東さんがはじめて『内省と遡行』を読んだのは高校3年のときで、そのわずか一年後に「ソルジェニーツィン試論」を書く。その間にいったい何があったんですかときいたら、「何かが降りてきたんでしょうね」とぽそっとおっしゃるんですよ。

斎藤● うん。すごくよくわかりますねぇ、その「降りてくる」という感覚。

──● 同じひきこもり系として(笑)。

斎藤● 当然じぶんのなかから湧いてきたものに違いないんですけど、その起源がみえないから降りてきたように感じる、まあ錯覚なんですけどね。向こうから勝手に来たと言えば、これはある意味でじぶんの責任じゃないんで解放感があるでしょうし(笑)。

──● こんなすばらしいものが書ける何かが降りてきたのなら、あんたラッキーだったねとしか言いようがないじゃないですか。

斎藤● ラッキーと言われても、甘んじて受けると思いますね。その意味では、じぶんにこだわっていないですから。そういう自信というものがあるわけですよね。じぶんがつくったんだけど、じぶんは選ばれただけなんだという、そんな受け身的な自信があるんじゃないでしょうか。

──● 実はその場でつい「ラッキーでしたね」と口を滑らせてしまったんですが、ことのほか嬉しそうな顔をしてくれました。

斎藤● 嬉しいと思いますよ、それは。じぶんの中の無根拠な、コントロールできない領域を褒められるというのがね。

──● おもしろいなぁ…。何か最終的には、じぶん探し系はひきこもり系に憧れることで癒される、という結論になりそうです。きょうはどうもありがとうございました。

('98年11月23日、佐々木病院にて)

撮影/中野愛子

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  『広告』1999年1+2月号 vol.333
 特集「若者のすべて」
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※1999年1月15日発行 雑誌『広告』vol.333 特集「若者のすべて」より転載。記事内容はすべて発行当時のものです。


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