やさしい革命5 よりどころをつくろう(永井元編集長イチオシ記事 #6)
自分なりの尺度をよりどころにしよう
経済成長が終わり、右肩上がりの経済をよりどころとした生き方はできなくなった。それは、有名大学に行って、名の知れた企業へ入れば幸せになれるという神話が通用しない時代。次世代を生きる人々が、未来の幸せを掴むための、新しいよりどころを考えた。
よりどころがないと人は生きられない
人間はとても弱い存在である。「自分は何をして生きていくべきなのか」を常に自問自答せずにはいられない。しかもそこには正解が存在しない。いうなれば、答えのない答えを捜し求めて悩んでいるといえるだろう。これは、知恵を持たずに本能だけで生きている動物には想像できない悩みだ。知恵は人間だけが持っている武器だが、それゆえに、他の動物にはない弱さにも耐えなければならなくなった。だからこそ、人間にはよりどころが必要であり、そんな弱い人間たちが生きるためのよりどころとして開発したのが宗教だ。正解なき問いに、正解らしき答えをくれる宗教は重宝された。そして、現代でも宗教は世界中で機能し、世界中の人々の生きる指針となっている。
一方で、現代を生きる日本人の多くは無宗教だといわれている。それにもかかわらず、よりどころに困らなかったのは、経済成長が宗教のようによりどころとして機能していたからだ。
大学へ行って就職し、面倒な仕事でも我慢して続ければお金は手に入り、生活も豊かになっていくという生き方は、経済成長がよりどころだったからこそ存在したといえるだろう。
しかし、経済成長が止まった今、このような生き方は通用しなくなった。だからといって、今の日本人には立ち返る宗教も存在しない。これからの時代を幸せに生きるために、日本人は経済成長に代えて、何をよりどころにすべきなのだろうか。
自分の内によりどころを持とう
哲学者のラッセルは1930年に出版した『幸福論』の中で、興味深いことを述べている。それは「ヨーロッパは多くのことがすでに成し遂げられたため、これから若者たちが苦労して作り上げなければならない新世界など存在しない。ゆえに、若者はやることがないため不幸である。一方、ロシアや東洋諸国では、これから新しい社会を作っていかなければならず、若者達が努力すべき課題が残されている。ゆえに、若者たちはやることがあるため幸福である」ということだ。これはすなわち、外部からやるべきことを与えられる人間は幸福で、与えられない人間は不幸であるということだろう。
これまでのよりどころだった経済成長は、外部から私たちに「やるべきこと」を与えてくれていた。だが今は、その経済成長は存在しない。だとしたら、外部によりどころを求めて「やるべきこと」を与えてもらうのを待つのではなく、自分の内によりどころを持って、自ら「やるべきこと」を作っていくしかない。
人はみんなバラバラで良い
自分の内によりどころを持つためには、絶対に必要な大前提がある。それは、正しい平等意識だ。
日本は海外からすると、一風変わっているという。みんなで体操着を着て同じ姿勢で整列をする小学校の風景は、海外の人には軍隊のように映るそうだ。さらに、最近の小学校では、運動会の徒競走は順位を付けないために全員一緒にゴールするらしく、走るのが速い子も遅い子もゴール直前で一旦止まり、最後は一緒に手をつないでゴールするらしい。
戦後における日本の平等とは「人と同じ」ということだった。しかし、「人と同じ」を重んじる文化が成り立つのは、みんながお揃いで同じくらいだけ豊かな生活ができる経済成長時代だけなのである。これからはもう、みんなが同じように仕事にありつけるわけではない。仕事にありつけても一生の安泰が保障されるわけでもない。だとすれば、日本における平等の概念も、新しい時代に合わせて捉え直さなければならない。
では、正しい平等の概念とは何か。評論家でありタレントの山田五郎氏がこのようなことをいっていた。
「平等っていうのは全員が同じことじゃなくて、全員が違うこと。全員が違うことにおいて平等なんだ」
自分の内によりどころを持つということは、人によってよりどころも変わるということである。これは、「人と同じ」という平等ではなく、みんな違うことを許容する新しい平等の概念がなければ、絶対に成り立たない。
自分の頭で、自分なりの理解をする
では、正しい平等の上で、自分の内に持つべきよりどころは何なのかといえば、それは自分なりの理解の仕方だ。これは、自分なりの「尺度」とも置き換えられる。自分が何に喜び、何に悲しむのか、という自分なりの価値基準のことである。
哲学者のスピノザは、「人は何かを理解したとき、同時に、自分にとって理解とはどういうことかも理解する」という。人は、同じことを見たり聞いたりしても、理解する順序も違えばスピードも違う。理解するという行為自体が、人それぞれ異なるのである。だとすれば、人は自分で多くのものに触れて多くのものを理解する過程を何度も経験することで、次第に自分の知性の性質や本性を発見していくということだろう。
仮に、理解する過程を無視して、自分にとっての理解を深めようとしないと「外から与えられた情報の奴隷にしかなることができなくなる」と、哲学者の國分功一郎氏は警鐘を鳴らしている。それはつまり自分に意志がなく、人が良いといったものしか良いといえないということだ。
自分なりの尺度は、愚直なまでに何でも自分の頭で考え、理解することを忍耐強く繰り返すことでしか手に入れられない。そのために必要なことは、様々なものに楽しみを見出そうとする積極的な姿勢だ。楽しいと思えるものでなければ、エネルギーを使って、自分の頭で考えようなどと思えないのが人間だからである。
卑近な例として映画を取れば、つまらない映画を見たとしても、「つまらなかった」という感想で終わらせてはいけない。その中に楽しさを見出すように思考をシフトさせたほうが良い。例えば、「つまらない理由を考えること」を楽しんだり、「どうすれば感情移入できるか考えること」を楽しんだり、そういう意識を持つ。そうすれば、思考を漂わせる領域ができてくる。
これはある種の訓練である。自分の思考をフル回転させる訓練を経なければ、自分なりの尺度は作れない。
自分らしい生き方をしよう
高知で働く気鋭のデザイナーの梅原真氏。彼は凄腕のデザイナーながら、東京ではなく地元の高知で働くことにこだわる。また、二番煎じの企画はやらないなど、仕事に対する美学もある。そのように考える詳しい理由はわからない。ただ、その思考が、彼なりの尺度なのだろうと思う。「豊かさとは、自分のモノサシを持つこと。押し付けられた価値観ではなく、自分のモノサシを持つこと。それが、幸せに生きることやと思う」とは、そんな彼の言葉だ。
これからは、経済成長は望めない時代だ。幸せな生き方をするために、自分の外によりどころを求めるのはやめにしよう。自分なりの尺度を確立して、幸せに生きるためのよりどころとすれば、自分の内に、「やるべきこと」は見えてくる。そして、人とは違う、自分らしい幸せな生き方ができると思う。
構成・文:坂部洸平
イラスト:中村洋子
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『広告』2012年1月号 vol.388
特集「やさしい革命」
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※2012年1月20日発行 雑誌『広告』vol.388 特集「やさしい革命」より転載。記事内容はすべて発行当時のものです。