雑誌『広告』
行間 〜 描かないからこそ、見えるもの
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行間 〜 描かないからこそ、見えるもの

雑誌『広告』

歌人 枡野浩一 × コピーライター 小笠原健
『広告』虚実特集号イベントレポート

3月1日に発売された雑誌『広告』虚実特集号にかかわりの深い方々をお招きし、オンラインでのトークイベントを開催しました。今回は、3月29日に『広告』編集部が開催したイベントレポートをお届けします。トークテーマは「行間」。限られた文字数のなかで世界や物語の広がりをつくる短歌、企業や商品の魅力を伝えるコピーライティングは、言葉を削ったり捨てたりすることで生み出される「行間」の魅力が溢れています。描か「ない」からこそ「ある」、そんな言葉による表現の“虚実”について、歌人・枡野浩一さんとコピーライターの小笠原健さんが語り合いました。

読み手との共通認識によって変わる「行間」の意味

小笠原:僕が枡野さんの作品に初めて触れたのは15年くらい前で、広告業界に入る前でした。元コピーライターでもある枡野さんの短歌を読んで、言葉ってこんなおもしろい使い方があるんだと世界が広がった記憶があります。今回、トークイベントのテーマを考えるなかで、「行間」というテーマならぜひ枡野さんとお話ししたいと思いお声がけさせていただきました。今日は「行間」や「余白」、描かないことが持つ可能性などを中心にお話を聞いていきたいなと思っております。

枡野:よろしくお願いします。

小笠原:さっそくではありますが、枡野さんが考えられている「行間」や「余白」について。これらの価値や、こういうものを残しておくべきだ、というような考えはありますか?

枡野:どうなんでしょうね。短歌の世界では、私は比較的、言葉を費やしている歌人だと思われているはずです。ほかの多くの歌人の短歌はもっと余白があって、一読しても意味が通じないこともあります。ただ私も、NHKのラジオ番組でニュースを短歌にするという企画がありその選者をやったのですが、リスナーから「難しい」と言われてしまいました。余白というのは、ある人にとってわかりやすくてもある人にとっては難しいということを痛感しているところです。でも、読んだ人が自分で発見してたどり着くことでしか届けられない部分というのがあると思うんですね。読者がパズルをひとつ自分で埋めた瞬間に「ああ、そういう意味か」と届くことがある。逆にそのパズルがすべて埋まっているような言葉は、読んでも素通りされてしまう、というような。

小笠原:読み手の意欲とかでも余白のあり方が変わってくる、と。枡野さんが『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)という本で、自分と同じ体験をしていない人にこの表現は通じるかを問う、ということを書かれていましたが、そういうことも考えられている枡野さんでも「届かない」と感じることがあるんだなと、ちょっと意外でした。間合いをどうとっていくのかは難しいですよね。

枡野:“自分と同じ経験をしていない問題”で言いますと、いまはツイッターなどのSNSで意外な経験をかなり共有できるようになったと思うんですよ。「こんな経験は自分だけかな」と思いつつツイートしたら、「僕も、私も」と反応がきたり。一方で、昔のヒット曲みたいに「これが流行っているとみんなが共有している」という状態は、最近では薄れてきている気がします。

私はお笑いが好きでライブにも行くんですけど、お笑いの場合も“みんなが知っているもの”との距離をはかって球を投げる、みたいなところがあって、共通点が皆無だと届かないけれど、共通の経験がありすぎても陳腐でおもしろくない。その微妙な距離ですよね。ほどよく知っていて意外性もある、というものがおもしろい。それは短歌ともとても近いと思います。

小笠原:共通認識の置き場や、共通言語が何かというのは広告でもつねに考えます。でも、あたりまえすぎては驚きがないし、人に伝えるには、捻り、驚きのようにある種のジャンプ台となるところが必要だなと。枡野さんがおっしゃったことは日々ひしひしと感じています。

枡野:これは時代も世代も関係しますよね。「このくらいはみんな知ってるだろう」と思っていたことが案外通じないことに気づいて、いちいちつまずいたりします。昔、ウォークマンのことを短歌にしたことがあるんです。「耐えるのだ ウォークマンの蓄電池ケースのふたがすぐ壊れても」という短歌で、ウォークマンを使ったことのある人には通じる短歌だった。当時はウォークマンがなくなるなんて思っていなかったけれど、もう若い人はウォークマンを知らなくて、今ウォークマンという言葉を使うなら注釈が必要となってくる。そうやって、つくった当時は普遍的なつもりだったものも、意味合いが違うものになったり、常識が変わって通じなくなったり。時代の空気にも左右されるので、余白というもの自体も、時代によってまったく捉えられ方が違うんじゃないかと思います。

たとえば恋愛の“がつがつさ”も世代によって違う。同じようなシーンを見ても解釈がすごく変わっている様子は短歌には如実に出ていて、若い世代の短歌をみると、同じような形をしていても根本的なものが自分の若い頃とは違う。(先輩歌人の穂村弘さんの言葉を借りますが)パソコンで言うと“OSが違う”みたいな感覚は受けますね。

小笠原:広告では、人を羨む気持ちや妬む気持ちとかは変わらないと言われます。ただ時代は変わるから、それと呼応する人間を描いていくことで新しく見えると考えてきたのですが、いまお話されたようにOSまでも変わってきているとなると、いろいろと前提が揺らぐなと思いました。言葉との向き合い方も大きく変わってきているでしょうし。

枡野:それこそ、携帯電話が登場する以前の時代のテレビドラマって、連絡が取れないことによる恋愛のすれ違いを描くことが多かったと思うんですけど、いまだと「なんで電話しないの?」となる。そのへんはもう古典として観なきゃいけない、時代劇みたいになってきているんですよね。小説で高校生を描くことがあったんですが、それも携帯電話がある時代にするかない時代にするかでまったく違う話になるなと迷いました。いまだったら、マスクを着用している/いない、という表現もそのひとつですよね。マスクの短歌を書くとしたら、昔といまで、イメージも意味も異なる。でも一方で、根本的な部分でそんなに進化・変化していないと思うこともあります。ものすごく古い短歌であってもいまの人が解釈できるものはある。もちろん時代背景の理解は必要であったとしてもね。「余白」「行間」という以前に、いまは通じる/通じないの吟味が必要なのかもしれませんね。

「言い当てられないこと」に出会ったとき、どうするか

小笠原:時代が変わっていったときに、言い当てられないものが出てくると思うんです。枡野さんの短歌に「『言葉にはできない』という言葉ならジョーカーみたいにつかいまくって」という作品がありますが、辞書にない感情や言葉にできない状況など、言い当てられないものが出てきたときにどうされるのかをお聞きしたいです。

枡野:私は音楽雑誌のライターをしていた時期もあって、ライブのルポルタージュを書いたりすると、本当に禁じ手なんですが「言葉にできない」と言いたくなっちゃうことが、ままありました。それを言ったらおしまいなので言わないように頑張るんですけど。音楽のライブなどは観客が肉体で受け止めるみたいなところもあるので、自分がそのとき受け止めて感じたものを書いたところで、読者に共有されるかはわからないんです。だから試行錯誤をして「なんかこの人一生懸命このことを言おうとしているんだな」という手触りのようなものを届ける、案外そういう遠回りな感じのほうが伝わるんじゃないかと思って書いていました。

そもそも言葉以外で伝わるものも多いじゃないですか。小笠原さんが手がけられたCMで、小さなお子さんたちが商品の説明を一生懸命しているんだけど口がまわっていないというのがありますよね。それがすごく可愛くて、次にこのCMが流れたらもう一度聞きたいという気持ちになるという。何て言っているのか聞き取れないけど可愛いから聞いちゃう、流暢であることには意味がないというか、ちょっと聞き取れないくらいのほうが実はメッセージとして伝わる可能性ってあるんじゃないか、ということを考えさせられたんです。

小笠原:言葉を扱う職業だと、言葉で解決しなくちゃという気持ちもあるし、その言葉がどういう意味を持っているのか、何をしようとしているのかしっかり説明することも求められるんですけど、そういうテクニカルな部分、つまり、巧いという部分が前に出過ぎると、急に伝わりづらくなる。それをうまく壊してみると逆に伝わることがあります。あとは、「記憶に残る幕の内弁当はない理論」というのがあって。幕の内弁当ってたくさんおかずがあって美味しいけれど、牛肉だけいっぱい入っているお弁当のほうが覚えやすかったりしますよね。言葉を尽くすより、あえて引いてエッジを残すというか。

枡野:私の友人でホイップ坊やという芸人さんがいるんですが、彼が考えた白いご飯の上におかずがポンとあるだけの「ハードコア弁当」というものが、あるとき流行ったんです。自分が食べるぶんにはおかず1個でいいんじゃないか、言われてみればそのとおりで。一体、何のためにおかずをたくさん入れているのかと言うと、みんな「なんとなくそうしなきゃいけない」と思っていただけなんじゃないかって。そうやって、誰もが漠然と思っているけど、うまく言えなかったことをたまたま指差すことができると、すごく共感されることがあります。

私より下の世代の岡本真帆さんという歌人は、ツイッターで短歌がバズったことによりデビューした珍しい方です。きっかけになったのが「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」という短歌。普通、短歌では「ずぼらだし」ときたら次は“ずぼら”とは別の次元のことを言うんですが、この場合、「傘もたくさんあるし」と “ずぼら”を説明するつくりになっているんですね。「ずぼらだし」と言ったあとにズボラの例を言えばいいわけで、後半の部分を「凍ったいくら風呂で解かすし」にしたり、ツイッターで大喜利みたいになっていろんなバリエーションが生まれていったんです。

最初にこの短歌を見たときは後半が説明になっていることがちょっともったいないなと思って、自分が短歌教室を開いていてこの短歌を見たら、「おもしろいけどちょっと変えてみたら?」とか添削しちゃったかもしれないですけど、いまは考え方が変わって、これだからこそ、みんなが真似したくなったんだと思っています。同時に「ここまで言わないとピンとこないのかもしれない」とも思ったんですよね。この短歌を含む岡本さんの『水上バス浅草行き』(ナナロク社)という歌集を読むと、自分の若い頃とは違う距離感でいまの人は生きているんだなということがたくさん出てきます。

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小笠原:
枡野さんの短歌を挙げさせていただくと、「ファミリーがレスってわけか 真夜中のファミレスにいる常連客は」や「わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに」などの短歌は、コピーライティングの技も効いていて、描かれている内容もすごく共感できるものでした。

枡野:こういうのは頭ではなく、体験でつくっているところが大きいですね。一人暮らしの部屋にいるときに「なんだこの気持ちは。家出したいんだ。でも一人暮らしをしてるのに」と思ったことがあった。「ファミリーがレスってわけか」も言葉遊びみたいに見えるんですけど、本当に自分が真夜中にファミレスにいることが多くて、そこにいる人たちを見て、ファミリーがレスってことなのかなと思ったんです。ちなみに、小説家の重松清さんも『ファミレス』(KADOKAWA)という小説に同じことを書いていらして、誰もがたどりつくことだとは思います。だからいまは、どのタイミングでどういう着地点で言うかの勝負になってくるのだとも思います。自分の場合は経験して書いたことだから、そこに何かしらの血肉感がちょっとでも出ているといいなとは思いますが。

小笠原:そういう“言葉に体重が乗っている感じ”があるというのは大事なことだと思っていまして。それこそが共通体験になりうる言葉なんですかね?

枡野:たくさんつくって出したなかで、たまたま自分以外の人にも通じたというだけで、そこを狙い撃ちにいったということでもないんです。逆に、自分では言ったことを忘れてしまうような言葉でも、誰かにとっては必要な言葉だったということもありますよね。わりと私はそういうことが多くて。「あのとき、こんな風に言われたよ」と誰かの言葉として返ってきて、「なるほど、確かに自分は言ったけれど忘れていたな」ということ自体を短歌にしたこともありますし。それは一個一個確かめていかないといけない手探りの作業なんですよね。

言葉は鋭ければ届くわけではない

小笠原:推敲などは、どうやられているんですか?

枡野:政治家のことを短歌にしたときに、最初の案は「政治家になる人たちは政治家になろうと思うような人たち」だったんですね。それを本にまとめるときにデザイナーの方から「これはちょっと政治家に対して厳しすぎるんじゃないか」と言われて、確かにそうだな、もし自分の友達が政治家だったらどうだろうと思って変えて、「政治家は大なり小なり政治家になろうと思うような性格」としたんです。

どっちが鋭くてキャッチーかと言うと、「人たち」という言い方かもしれないんですが、鋭ければいいとも思わないし、やわらかくても自分の本当の気持ちに近いほうにしようと考えたんですよね。言葉って、書いているうちにどんどん鋭くなっちゃって、みんながぎょっとするような仕上がりになってしまうこともあるんですが、それが本当にしたかったことだろうかといつも自分に聞き返すんです。

小笠原:広告の場合はもともと「こういうことを伝えたい」というテーマがありきですから、それをどう尖らせるかというのがベースにはあります。でも、人を傷つけるかも、驚かせすぎるかも、となって引き返したりしながら塩梅を探る。相手に伝わらないのではという危惧と同時に、誤解を生むことへの恐怖心もあって、つねに蛇足ではないか、野暮になっていないか、どこがジャンプすべきところなのかを考えています。

枡野:広告だと企業のジャッジもあるでしょうから難しいですよね。以前、とある企業の社長さんから「枡野さんの短歌ってよくわかんないよ」と言われたことがありました。でもひとつだけ、「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」というのはわかると言われたんです。それは短歌の世界ではバカにされがちな短歌というか、高校生でも言いそうな内容の短歌だと言われたこともあったんですけど、企業の社長さんが、よくわからない枡野の短歌のなかで唯一わかったというのは、とっても大きいことだと思って、自分のなかでは大事な短歌になっています。若い人からするといまは野茂じゃないでしょ、となるでしょうけど、じゃあ大谷に変えればいいのかと言うとそれは違うとも思っていて。海外に最初にいった野茂さんが象徴として背負っているんだ、という諺みたいな感じで書いた短歌なんです。

小笠原:迷ったときの終わり方や最終稿の決め方決め方などはありますか? 大胆になるところ、冒険するところ、勇気でやりきるところと言いますか。

枡野:短歌を書きはじめた頃は、書いたものをずっと持ち歩いて、会う人に読んでもらっていたんですね。迷惑だったと思うんですけど、お願いして。老若男女、いろんなタイプの人に読んでもらうんです。そうすると、人によっておもしろがるものが違うので、それをチェックしながら、この短歌は万人に通じたなとか、女性に受けたなとか、受けが悪くても自分にとって大事だったら残すとか、自分では捨てたかったけどデザイナーさんが残すべきだと言ってくれたので残したものもあります。

短歌を自分で選ぶことを自選と言うんですけど、自選はだめだというのが自分のモットーです。よく自選50首を選んでくださいといった仕事もあるんですけど、そうすると絶対間違えてしまう。人って、最近の作品を多めにしちゃったりするんですよね。最近のほうがいいと思っているから。ただ読み手は、昔のあの歌が好きだったりする。音楽もそうじゃないですか。コンサートでヒット曲を聴きたいのにアーティストは新曲ばっかり歌うとか。それなんですよ。アーティスト本人は飽き飽きしていて新曲を聞いて欲しいと思うんだけど、聞き手はあのヒット曲を、しかも変なアレンジせずに聴きたいと思っているんですよね。新曲歌いたいなら歌えばいいと思うんですけど、聞き手の気持ちと違うことは絶えず気にしながら。どうせなら新曲もみんなが聞きたい昔のヒット曲も両方やればいいのに、たまに封印しちゃう人っているじゃないですか。それはちょっと違うなと思っていて。

『ダウ90000』という演劇のお笑いも同列にやる8人組が好きなんですが、彼らは主宰者が24歳(※対談時)と若いんですね。彼らのネタには『花束みたいな恋をした』という映画へのオマージュとかが出てくる。あの映画を観ているのってサブカルチャー好きな層でしょうし、それを大前提としてコントをつくっていたりするんですが、それは自分たちのお笑いを観に来る人たちは、『花束みたいな恋をした』は観ているだろうという前提でやっているんですよね。全部わかったと言う人もいれば、半分くらいわかったという人もいると思うし、どのくらい伝わるかは人によって割合が違うと思うんですね。彼らもテレビのときはテレビ用にネタを変えているんですが、その辺の調整が、絶えずいまは必要なのかもしれませんね。この場ではこういう風にして、こっちの場ではバージョン変えてやるとか。いちばん辛いのは、世界に伝わるような場での発言が、文脈とかを踏まえないとあらぬ誤解を生んでしまうことですね。

小笠原:いわゆる炎上というのは、文脈をはきちがえていたり、ある分野の界隈で通用するような言葉を外に持ち出してしまったりといったことが多いですね。急に「行間」の読まれ方が変わるシーン。

枡野:そうですよね。炎上って、何か的を射てしまっているところもあって、だから怒る人が多いんだとも思うんですよ。言わないだけで、そう思っている人はたくさんいる。言った人を責めてもしょうがないという考えですね、私は。炎上を避けようとすると、隙間なく説明して、いちいち「個人の感想です」と付け加えるとか、「このときの『人権』はこのような意味です」と注釈を入れたりとか、ものすごく無粋なものになっていく気もしますね。

小笠原:逆に、こういうのもありじゃんと急に開けたりとか、そこ言ってもいいんだとかなるような、先ほどの「ずぼらだし」のあとに「傘もこんなにたくさんあるし」と続けてもいいとなるような、新しい表現が広がる瞬間ってありますか?

枡野:吉本ばななさんがデビューした頃は、「すごい」「うれしい」とかあまりにストレートな表現をするので、そんな書き方してよかったのか小説って、と驚きがあったと思うんですよね。そういうことって定期的に起こることだと思います。たとえば、みんな漠然と「『美味しい』と言わずに美味しいと伝えるのが表現です」と学んできたと思うんですけど、「美味しい」でいいじゃんということもある。私の時代だと広告コピーで「買ってください」なんて絶対禁じ手だったのに、わざと「買ってください」と言って話題になるとか、そういうこともあるんですよね。

小笠原さんの作品集のなかで、ちょっと笑ってしまったのが、「急げ。ゼロって言えば売れる時代だ」というコピーがあって、これは企業側がゼロというのを伝えたくて、でもコピーライターの方はいまさらと迷っているのではと感じるところがあって、「ゼロって言えば売れる」とあえて自分でバラしちゃうことで好感を持たせるという感じがおもしろいと思ったんですよね。いまはそういうことを言ってもみんな受け止める。またゼロっていう名前のものが出たな、でもゼロって言えば売れる時代だってコピーが自分で言っちゃってるよ、という風に受けて止めてくれる。昔だったらできなかったと思います。広告の裏側とかをみんなが考えるようになったから伝わると言うか。それでかえって素直さとなって好感が持てると言うか。すごく正直になったり、すごく遠回しになったり、あるベクトルに偏るとまた揺り戻しが起こるということがずっと続いている気がしますね。

小笠原:積極的に新しいものを見つけていったほうが自分としても幅が広がって行きますよね。恋愛の歌なんて大昔からもう何千曲何万曲もつくられているのだから、そういう流行歌の戦いに比べれば広告のコピーはまだマシなんじゃないかと自分に言い聞かせているときもあります。それでもまだ新曲が出続けてるんだし、と自分を奮い立たせたりして。音楽はドレミファソラシドと音階も決まっているわけで、それに比べれば日本語はもっと幅広いぞ、とか(笑)。

枡野:小笠原さんの作品集を見たときに、ひとつのキャンペーンでいろんなバリエーションをつくっていらっしゃると思いました。

小笠原:そうですね。これはこの方向、これはこの方向と角度を変えてやりますが、そのときに思い浮かばなかったことも、世の中の空気感が変わると、世の中と商品の結びつきも変わるので新たに書けることがあります。でも、条件が変わらないと難しい。つくるときはいちばんいいものを提案しようという気持ちでいるので。

枡野:いちばんいいものを出したのに、もう1回シリーズでつくってと言われても困っちゃいますよね。小笠原さんの作品のなかで、これは短歌になるぞというコピーがありました。高校生ロボット相撲&アメフト全国大会のコピーで、「片手で持てる重さなのに、みんな両手で運んでる。」というのは短歌だなと思いました。

小笠原:めちゃくちゃうれしいです。

枡野:「それぞれに みんな両手で運んでる 片手で持てる重さなのにね」って。

小笠原:うわっ! あっという間に短歌になりましたね!

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枡野:
これは、捉えているものが短歌的というか、肉体性がありますよね。人って、ケーキみたいな軽いものこそかえって両手で持ったりしますもんね。どんなものを持っているかを伏せていても、いろんな人が自分のことにあてはめて読むと思うんです。自分も軽いものを両手で持ったことがあるなって。何についての宣伝かは伏せていても、このコピーはみんなが共有できるものだと思います。

小笠原:ありがとうございます。それはまだそのロボットの大会を自分では見ていないときに案件が始まって、見たことがないから想像して書いていたんですが、それじゃダメだとなって予選会を見に行ったんです。その現場で、「こんなことをしてるんだな」というのを見ながら、決勝に間に合うように書いたという思い出があります。

枡野:そんな短期間で書かないといけなかったんですね。

小笠原:はい(笑)。枡野さんも先ほどおっしゃっていましたけど、みんなが共有できる物語というのは、自分の心が動くものをしっかりと、本当の意味で感じるのが大事なのかなと思いました。

枡野:現場の情報量って大きいんだと思います。そういうことをどれだけ自分の引き出しに持っていられるかなんだと思うんですよ。

小笠原:現場を見ると、一見自分からは遠いことでも引きつける力がつくような気がします。余白を詰めるスピードが高まるのかな。

枡野:受け止めた側が余白を自分で埋めたという実感って、強固なものだと思うんですよね。能動的に受け止めたということだと思うので。テレビドラマでも余白の多いドラマはものすごく熱心な視聴者がつくイメージがあって。私は坂元裕二さんの脚本が好きなんですけど、坂元さんの作品ってちょっと読解力がいる部分があると思うんですね。でも好きな人たちの食いつきがすごい。「私だけがわかった」と思わせる部分があるし、もしかしたら視聴率はそこまで高くないのかもしれないですけれど、ずっと引きずるくらい好きになってしまったり、DVDを買ってしまったりする。ものすごいマスに向けるのではなく、対象を狭めても深く届けていいという仕事だと、やれることってあるのかもしれないですね。

小笠原:余白のあり方って人によって違うとすると、枡野さんみたいにいろんな人に「この短歌が好きです」と言われたりすると、作品との距離感が多面的になって理解が進むというか。そんな見方があるのかという気づきを得ていくことなんですかね。

枡野:案外変な解釈されていることもあるんですけど、「そう読まれちゃったのか、でもそう読めるかもしれない」と思ったりとか、いろいろですよ。だから、どんどん自分がつくったこと自体に価値を感じなくなってきました。変な話ですけど、自分という体をとおして誰かがつくったという感覚というか。自分が書いたんだけれども、自分が書かなくてもよかったような気持ちになったときに、その短歌が普遍性を持つことがあるんです。この短歌、自分がつくったんだっけ? と思うようになっているほうが、わりと生き残っている感じはしますね。

小笠原:より世の中のものになっているということなんでしょうか。

枡野:自分がこれはたくさん推敲したな、とか気になっている短歌はダメで、自分でつくったんだっけ? 忘れてた、くらいの短歌が残るんです。もしかしたら無意識みたいなものなのかもしれませんね。人間の無意識ってけっこう大きくて、言語化して「こういう風に考えてつくりました」というものより「なんでこの言葉にしたんだろう?」という自分でも不思議な部分があるもののほうが、案外大事なんじゃないかと思うようになってきました。前は自分でコントロールしたもののほうがいいと思っていたこともあるんですけど。受け手に届いたときにやっと完成したんだなという感じでしょうかね。

小笠原:そういうコールアンドレスポンスというか……割と短歌はインタラクティブなものなんですか?

枡野:短歌の場合は世界が狭いというのもあって、みなさんすぐつくり手になるんですね。読んで感動した人が、自分でもつくりたいなと思ってつくって、実際に歌人になっていくことがあるジャンルなんですよ。そして自分でつくるとよりわかるようになるんです。そうなると、枡野の短歌よりもう少しわかりにくい短歌を好きになっていくんですけど。自分でつくることでわかることがあって、「枡野さんの短歌は入り口としては好きだったけどいまは卒業しました」とかよく言われます(笑)。

置き換え可能な言葉が「行間」になる

枡野:私が思う以上に余白って通じないんだなという場面もあるし、かといって余白をなくしたいわけではないので、迷いながらやっていくしかない。いろんなレベルの短歌をつくって、これは2、3人しか通じないかもしれないけど大事な短歌だから発表するとか。発表している短歌には失敗作だと思っているものもあるんです。もっと推敲できたかもしれないけれど、その時点では最善のかたちで、本人が下手だとわかっているからいい、という着地点なんですよね。ちょっと下手だなと思いながらも、その時点ではこれ以上は書けなかったんですよ、という暫定的なものがあって。若い人がもっといい言葉に変えてくれるならそれでいいという気持ちで、でも言いたかったから発表しましたみたいなことが時々あります。

小笠原:自分では下手と感じているかもしれないけど、だからこそ魅力的に見える魔力のようなものもあるんでしょうか?

枡野:あるでしょうね。私、作家の赤瀬川原平さんがすごい好きだったんですね。赤瀬川さんにサインをもらえる機会があって、「ここにサインください」と古いポストカードを出したら、「あぁ、この絵はちょっとうまくいってないんだよね」とおっしゃったんですよ。それがすごく印象的で。僕にとってはすごくいいなと思って買ったポストカードなのに、本人は後悔があったんですね。でも、そんなものを発表するなんて、とは思わない。僕はすごくいいと思っているけど本人は後悔があるんだということにちょっと感動するというか。短歌でもそういうことがあるんです。もちろん、言い訳をしたいわけではなくて、ここがダメだねと言われたらそうなんですよと言うしかないんですけど、そんなにすべての言葉を完璧に流暢に伝えられるわけではないし、あの手この手で伝えているんです。

最近、私は絵本をよくつくるんですが、言葉と絵がセットになって初めて通じることがあるんですよね。言葉だけ上手でも意味がなかったり、絵がここまで描かれているなら言葉を削ってもいいなとか調整が必要なんですが、いちばん大事なシーンの説明はないほうがいいなと省いたりすることはありますね。最近つくった『シロの気持ち』(あかね書房)という絵本は、いちばん大事なひとことをあえて外して書かなかったんですが、それは絵でわかるからなんですね。ほかは耳で聞くだけでもわかるように言葉で説明しているんですが、最後の大事なところだけは絵を見ない限りはわからないようになっているんです。「ここにこの一文が必要なんじゃないか」という指摘は当然あったんですが、編集の方とも相談してやっぱりないほうがいいねとなったんです。

言葉をつくる仕事をしていると、言葉で何もかも伝えたほうがうまくいっていると思いがちなんですけど、そうでもないんじゃないかと思うことがありますね。書体とかによって印象は変わるし、改行とかによっても印象は違うし、何に載っているかによっても変わるし、それによってすごく左右されている。置かれる場所によってはまるで違うようになりうる、ということを本人が気にしているかは大事だと思います。私の座右の銘は「うしろめたさ」なんですけど、うしろめたさを持っていることが大事だと思っているんですよ。この短歌はここが失敗しているなと、うしろめたさをもっていることが大事なんじゃないかと自分を納得させています。「余白」のテーマから少しずれてしまったかな、ごめんなさいね。

小笠原:「余白」のあり方が時代によって、人によっても変わってくるし、受け止める側の間合いも異なるけれど、経験が積み重なっていくことで間合いが掴めていくのかなと思いました。間合いや余白が広いんだけど、そこをギュッと詰めてしまいたくなる引力がある作品が魅力のある作品なのではないかと。

枡野:余白を徹底的になくすベクトルでつくると、またおもしろいものになる気もするんですけどね。そこまで説明しますか? みたいな過剰さもおもしろいとは思います。海外の児童文学ってハッピーエンドのあとにまたハッピーエンドを重ねることがあるんですよね。もう充分ハッピーなのに、さらにこんないいこともこんないいこともありました! みたいな終わり方を読むと、「もういいよ!」という気はちょっとしますけどね。でもそこまでしないと納得しない人もいるのかもしれない。

小笠原:アメリカなどのいろんな文化圏の人がいる国で共通のことをやっていこうとすると説明がいるとかあるかもしれませんね。日本語だからできる余韻の取り方とかもあるし。

枡野:私がこういう作風なのも、あんまり自分が多数派だと思っていなくて、わりと自分の感覚がずれていて、その調整をしなければいけないという意識でいるからなんでしょうね。自分はこう思うけどほかの人は違うかもしれないといつも思っているんですよ。そうして書いているのが、自分の短歌の特徴かなと思いますね。

『広告』編集長・小野(以下、小野):僕からもいいですか。先ほど、野茂の短歌は諺みたいな気持ちでつくられたと話されていました。諺って最初に聞いたときはわからないような表現が多くて、その意味を学んだことでどういう意味なのかわかるようになる。そして日常会話でも使うようになる。日常で使われる言葉を生み出すというのはすごくおもしろいなと思ったんですが、諺みたいなものをつくる気持ちというのをもう少しお伺いしたいなと思います。

枡野:諺のように一見意味がわかりにくいけど、全部読めば意味がわかるようにしたい、というのは願いとしてあるんです。たとえば「結果より過程が大事 カルピスと冷めてしまったホットカルピス」という短歌があって。冷めてしまったカルピスは温めていないカルピスと同じように感じるけど、冷めてしまったという経緯があるんだという短歌なんですね。これはカルピスのことを指さしているように見えて、ほかのことにも応用が効くなと思います。「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」の短歌も、野茂以外にも当てはまる。ノーベル賞をとった研究者の方の名前でも当てはまるし、海外で評価された人なら誰でも当てはまる。日本人がすごいことをしたみたいなニュースがあると、この短歌がたくさんツイートされるんですよ。

諺って人々のしがちなことへの戒めだと思うんですよね。日本の誰かが成功すると、日本人ってすごいと言いたくなっちゃう気持ちは当然あるんだけど、それは君や私の手柄ではないんだという風に戒めとして言う。人ごとじゃないんですよ。私自身も野茂が成功したからといって浮かれるんじゃなくて、自分もがんばらなきゃいけないんじゃないかという戒めとして書いているところがあるんですよね。それが上から他人事のように言ってしまうとすごく嫌な短歌になるんです。お前の手柄じゃないじゃんというのは嫌味な短歌になってしまうから、君や私の手柄ではないという、「私も」というのがすごく大事なんですよね。

言葉って比喩的な意味がまとわりつきます。いま着ているTシャツにプリントされている短歌は「四百字ぶんの枡目をうめるにも足らぬ三百六十五日」で、原稿用紙に1日1文字ずつ1年書いていっても四百字埋まらないんだ、1年って短いなという気持ちを書いています。大したことを言ってないようだけど、それによっていろんな付随したイメージが出てくる。1年って短いなという気持ちとか、何かはかなさを感じたりする人もいるでしょうし。指さしたものがある短歌が、大事なものになっていくところがあります。さっきのカルピスの短歌も、カルピスのことを言っているんだけども、そうじゃないもののことも同時に言っている感じですかね。

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小野:
今回は「行間」というテーマで副題を「描かないこそ見えるもの」と置いたんですが、描かないというより、描いているものが置き換え可能ということが行間でもあり、読み手が自分ごととして受け取るんだなと思いました。小笠原さんのコピーで、「片手で持てる重さなのに、みんな両手で運んでる。」というのも、持っているものが置き換え可能だからこそ、自分のことに当てはめて共感できる。カルピスと書いていてもカルピスと受け取っていないからこそ共感している。書いているままとは違う受け取り方なんだけど、伝えたい気持ちは書いているまま伝わっているというか。意図した気持ちが伝えられていると思うと、非常に奥深いものだなと思いました。本日はおふたかた、ありがとうございました。

文:鈴木 絵美里

枡野 浩一 (ますの こういち)
歌人。1968年、東京・西荻窪うまれ。広告会社勤務のコピーライター、音楽誌ライターなどを経て、1997年『てのりくじら』(実業之日本社)で歌人デビュー。高校の国語教科書に短歌代表作《毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである》が掲載中。短歌小説『ショートソング』(集英社)など著書多数。『ドラえもん短歌』(小学館)選者も。近刊は内田かずひろ氏の犬漫画を絵本化した共著『シロのきもち』(あかね書房より5月刊)。
小笠原 健(おがさはら たけし)
コピーライター、クリエティブディレクター。博報堂に入社後、TBWA\HAKUHODOを経て、2020年よりSIGNINGに所属。東京コピーライターズクラブ会員。ヤングライオンズフィルム部門日本代表。国内ブランド、グローバルブランドを問わず数多くの広告コミュニケーションを担当。また、3DCG女子高生Saya「1日転校生Saya」や「日付のないチケット」など、コピーを起点に様々なプロジェクトに携わる。


【関連記事】

今回のトークイベントに参加いただいた小笠原健さんには、雑誌『広告』虚実特集号でもご協力いただきました。現在、小笠原さんに寄稿いただいた記事を全文公開しています。

89 「虚」の「構築」について
▶︎ こちらよりご覧ください

【関連動画】

このトークイベントの動画は以下よりご覧いただけます。



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末吉 「果報は寝て待て」
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博報堂が発行する雑誌。「いいものをつくる、とは何か?」を思索する“視点のカタログ”として2019年にリニューアル創刊。クリエイティブディレクター/プロダクトデザイナーの小野直紀が編集長を務める。最新号の特集は「虚実」。