fsdとはなんだったのか。どうありつづけるのか。(池田元編集長イチオシ記事)
「広告」fsd編集長 池田正昭
この一年、真四角になったこの雑誌の正式名称は、「広告 future social design magazine」というものでした。future social designを略してfsdと呼んでいました。しばしばリニューアルされる雑誌「広告」の長い歴史においても、さらにはほかの雑誌との比較においても、形状以上にそのコンセプトと方法論が、その評価はともかくとして、ずば抜けて型破りな大リニューアルでした。fsdシリーズの「広告」は、計6回世に送り出されることになりました。その間、言うならば「広告」はfsdにジャックされ、雑誌ならざる独特の場所になりました。そこでは、いくつものプロジェクトがうごめいて、毎号、次の予想がまったく立たないようなさまざまな生きた展開を繰り返しました。このfsd総集編号で終わりを迎えるのは残念ですが、fsdという考え方を振り返りつつ、あらためてその可能性を未来に向けて開いておきたいと思います。fsdとはなんだったのか、どうありつづけるのか。もうその結論を、一言で先取りしておきましょう。fsdとは、広告で世界を変える試みである──。
それに関わる人たちがfsdへのモチベーションを失わない限り、プロジェクトに終わりはありません。
■──パブリックリレーションからfsdへ
これは、きわめて特異な性格の雑誌です。広告会社の広報室でつくられる、一般向けの雑誌。商業誌ではない、かといってPR誌でもない。(著者が)6年前に編集部から誘われたとき(それ以前は鳴かず飛ばずのコピーライターでした)、たんに雑誌づくりへの興味というより「広告会社の広報室でつくられる」雑誌という点に強い興味を覚えました。もし広報室以外のセクションや、編集部として独立した組織でつくられる雑誌の編集だったらおそらく異動の誘いにはのらなかったと思います。なぜ「広報」であることに期待をもってしまったのか。それは、そもそも広報とはパブリックリレーション(public relations)という概念だったからです。もちろんその言葉にはさまざまな専門的な解釈が与えられていますが、単純に「企業と社会との関係性」というテーマに関心をもったのです。それも、広告会社がとるべき社会との関係性。コミュニケーションを専門とする企業におけるパブリックリレーションのためのメディア。その位置づけのもつ意味と可能性にはわくわくさせられるものがありました。
雑誌「広告」はすでに数十年の歴史をもっていましたが、そんな性格の雑誌が可能性としてほんとうに存在しうるのかどうかは最初は半信半疑でした。以来、この雑誌とはなにか、本来どうあるべきなのか、その秘密を解くことを自分への課題としながら隔月刊の雑誌をつくりつづけていくことになりました。雑誌づくりそのものが目的ではない、なんの目的のためにメディアが必要となるのか。雑誌が世の中で一定の評価を得るようになった後でも、その疑問は解消されませんでした。
編集部のなかでイニシアティブを取れるようになった98年頃から、雑誌としてのプレゼンスを高めていく一方で、大胆な試行錯誤(迷走?)を繰り返すことができるようになりました。広告業界誌から「広告業界から発信する雑誌」へ、カルチャー誌から「オタクカルチャー誌」へ、プレゼンス(存在感)のある雑誌から「プレゼンテーションする雑誌」へ……。
そして最終的にその「特異な性格」にもっともふさわしい最適解に辿り着けたと思えたのが、「プロジェクト・ベース」という形式であり「future social design」というコンセプトでした。メディアをプロジェクトがインキュベートされる場として活用し、人々とともに具体的な未来のビジョンを描いていくこと。「広告」という雑誌におけるパブリックリレーションの営み
は、このかたち以外にありえないと確信しました。
■──fsd登場の背景
「世の中を動かしてみたいから」──広告の黄金時代である80年代に広告代理店に入社した者たちはよくそんな志望動機を口にしていました。「広告で世の中を動かせる」、それは世の中が総ミーハー化した時代の若者の思い上がりでもなんでもなく、当時は素朴に広告のそんな可能性が一般的にも認知されていたように思います。もちろん広告は商品を売るための手段ですが、それのみならずなにか大きな野心のもとで広告というものは捉えられていたような気がします(80年代といっても、85年頃までのほんの数年の現象ですが)。
雑誌「広告」はfuture social design(fsd)を標榜する直前から、遠吠えに終わるのを覚悟のうえで本気で「広告で世界を変えよう」と訴えてきました。「広告で世の中を動かせる」ということと「広告で世界を変える」というのとは微妙にニュアンスが違いますが、実際のスタンスや意気込みにほとんど変わりはないと思います。ただ、時代背景が20年前の当時と現在とではまったく劇的に異なります。資本が世界を覆い尽くすことを戯れに肯定できた時代と、資本との向き合い方を各自が自分の問題として考え直さざるをえない時代と。広告で世の中を動かさなくても実は誰も困りはしなかった時代と、広告で世界を変えなければ地球的危機を誰も回避できないかもしれない時代と。
先にプレゼンテーションする雑誌という言い方をしましたが、提案型の雑誌をやっていていちばんもどかしいのは、「時代はいまこうなっている、だからみんな、○○しよう!」と熱く提案を繰り返したところで、結局はなかなか人は動いてくれないということです。もちろんそれを伝える側のこちらの力量不足という面もあるのですが、なりふりかまわず煽動するという方向に行かないのであれば、提案する雑誌といっても程よい啓蒙の書としてお茶を濁すことしかできないでしょう。良質の雑誌ができて満足できるのならともかく、雑誌づくり自体が目的ではないはずのわれわれにとって、それは大きな問題でした。爆弾のつくり方を図解したら自分もやってみようかという人は出てくるかもしれませんが、そんなのは世界を変えることとなんの関係もありません。
この二、三年、雑誌から発信した主張に実はそんなに大きな変化はなかったと思います。fsdの2001年よりもその前のほうがもっと無謀に大風呂敷を広げたこともしばしばでした。プロジェクト・ベースのfsdへのいちばんの変化は、「世界を変えよう」から「世界を変える」になったことでした。「世界を変えよう」と人に呼びかけるのではなく、「世界を変える」と宣言して、まず自分たち自身でやってみる。失敗しようが恥をかこうが、実例をみせるということ以外、人を動かすことはできない。雑誌からいちばん影響を受けているヴァルネラブルな読者は、記事をつくった当の自分たち自身なのですから。
■──新しい広告の定義
みずからが現実にはたらきかけるプロジェクトをインキュベートする場として、2001年2月に発行された号から「広告」は「future social design magazine」というカテゴリーの雑誌になりました。もちろんそんなカテゴリーはありませんが、突飛な思い付きやいわゆる「狙い」でそうしたのではなく、これまで「広告」が辿ってきた系譜とそれを取り巻く時代状況から、ある必然があってそこに至った、あるいはそうなるべくしてそうなった、と思っています。
もちろん結果については責任をもたねばなりませんが、その意味で、自分でなにかに決断を下したわけではありませんでした。状況が半ば自然にできあがっていて、いわばすでにアティテュードというものが形成されていて、それが「広告」という母体に寄生することでfsdという運動体が発芽した、というような理解が適当かもしれません。いずれにせよ、「広告」が、いや広告がfsdの母なのです。さしあたり編集長は産婆でしょうか。fsdが寄生することで、逆に広告という言葉の意味もクリアになるような気がしました。
最初の号(fsd1)のなかで、これからの広告について、新しい雑誌の特徴を意識しながら次のように定義していました。
(広告とは)──未来の社会をデザインするために、現実に働きかけるアクションとリンクし、多元語で伝えあいながら、開かれた広場として機能するもの。
要するに、広告は、世界を変えるための普遍的なツールである、その使い方と使用例はここにある、と言い切ってしまったのでした。
■──環境は関係
「広告」fsdは、それまでの「広告」と大きく読者層を変えました。カルチャー好きのための雑誌から、読者の多くが環境問題に関心をもっている雑誌というように様変わりしました。しかし雑誌のコンテンツとしては、Re:プロジェクトをのぞけば、あまり環境問題そのものにコミットすることはありませんでした。地球温暖化の問題についての基礎的データはよく知りませんし、ダイオキシンの人体への影響に関する科学的な知識もありません。勉強嫌いは反省しなくてはなりませんが、必要なら専門家にきけばいいと開き直っていたところもありました。それよりも、一般的に環境という言葉につきまとうイメージには少なからず違和感を覚えていました。
どこをみても、あふれるほどの緑。たたみかけられる、癒し系のささやき。それらにいちいち突っかかっているうちに、にわかエコロジストはほとんど「グリーン・アレルギー」とでも言うべき症状に陥ってしまいました。なんで緑なのか。なんで「地球にやさしい」なのか。なんで環境アートというだけで、星空に白い虎ばかり描いている作家の絵を思い出さなければならないのか。そんなとき、宇宙飛行士・毛利衛さんの言葉は本当の意味で癒しになりました。〈地球は岩の塊である。表面の緑が剥げ落ちようが地球は地球である。人間がそこでどれだけ大騒ぎしようが地球にとってはどうでもいいことだ。地球は地球として、ただ存在する〉といった神学的な話を、おそらく地球外生命体にも遭遇している人の口から実感レベルで語られたとき、ずいぶん気が楽になりました。
安易なヒーリング系への傾斜を注意すれば、環境問題はイメージの刷り込みとはほど遠い、もっと実践的なテーマに置き換え可能なはずです。後ろ向きに縮減・節約をこころがけることも大切ですが、環境問題とは道徳の問題などではなくて、積極的な倫理の問題。もっと言えば、ずばり、環境とは関係のこと。
われわれは、ありとあらゆるものと関係しているのであり、その関係性の総体を環境という。そして、そのありとあらゆる関係性に配慮することが環境問題への取り組みということになる、と考えることはできないでしょうか。空気ともちゃんと関係していかなければならない、ということです。そして、空気と関係する他者との関係を考えなくてはならない。たとえば企業の立場に立てば、環境経営という一見矛盾しそうな概念も、関係性の側から経営を考える、というふうに理解することができると思います。イージーに図式化すれば、これまでの経営が自分本位の存在論に拠っていたとすれば、これからの経営は他者を優先した関係論をベースにする、と言うことができるでしょう(企業の多くが環境報告書づくりに力を入れるようになっていますが、そのレポート作成のためのガイドラインなどをみれば、明らかに経営のトップはすべからくエコロジストでなくてはならないと書かれています)。もちろん企業にとっては、第三世界の生産者たちとの関係を配慮するフェアトレードにも今後ますます力を入れて取り組まねばならないでしょう。
ありとあらゆる関係性の修復が環境問題への取り組みということになるのなら、地域通貨こそがその解決の切り札という言い方ができてしまいます。言うまでもなく、exchangeという交換の関係からこの社会を見直そうというのが「広告」fsdにおける地域通貨オープンマネープロジェクトの主旨でした。地域通貨の専門誌と揶揄されるほど、当初から関係性を開く新しいおカネの可能性に賭けたわけですが、地域通貨が現在のように環境問題とセットで語られるのが当たり前の世の中になるとは一年前には想像できませんでした。
fsd1が出た直後に、2001年の「アースデイ東京」を準備していた人たちから連絡があり、彼らにアースデイの会場で地域通貨をテーマにしたシンポジウムを編集部主催でやってもらえないかというオファーをされたとき、環境イベントで地域通貨を取り上げる? ということに当時としては正直まだこちらもぴんと来ない有り様でした。経済問題と環境問題がひとつになることは頭ではわかっていても、まだ想像力を働かせるところまでは行きませんでした。しかしもはや、経済問題と環境問題が同じコインの表裏であることは自明になっています。どちらも、関係性の問題ということでは同じです。そう、どちらもコミュニケーションの問題です。つまるところ、広告の問題です。
広告が経済問題と環境問題の両方を一度に解決する。そこまで言うと、いまはほとんど妄想としか思えないでしょうが、やがてそれも当たり前の認識になる時代がやってくるのではないでしょうか。その確信を深めたことが、この一年、運動としてfsdをやってきたうえでのもうひとつの大きな成果でした。
■──fsd02への希望
オープンマネープロジェクト、ストリートマーケティングプロジェクト、ポストコーポレーションプロジェクト、Re:プロジェクト、対話プロジェクト、メディアカルチャープロジェクト(NEXT100)、ブラジルプロジェクト(mortoanil)、ラフ&ピースプロジェクト、フォトグラビアプロジェクト(waterbed)、そしてアースデイマネー、シブヤプロジェクト。振り返ればこの一年、「広告」はfsdをコンセプトとするさまざまなプロジェクトをインキュベートしてきました。順調に展開できたものは少なく、おおかたは上や下への大混乱をきわめ、母体にはかなりの負担を与えたかもしれません。良くも悪くも、本来、プロジェクトとは生き物であるということを痛感させられた一年でした。
このたび、fsdは雑誌「広告」から切り離されることになりました。これが、future social designをスローガンに掲げて出す最後の「広告」ということになります。fsdの魂胆が広告で世界を変えることである限り、その受け皿として「広告」という雑誌ほどうってつけのメディアは他になかったでしょう。「広告」においてやり残したことはまだまだたくさんあります。しかし、親離れの時期がちょっと早めにやってきたくらいに割り切って、各プロジェクトは自立して次の発展形態を前向きに模索することにしました。あっさり挫けてしまうものもあるかもしれませんが、むしろ雑誌に囚われないことで楽しみが増すものもあるでしょう。新たなプロジェクトへ吸収合併されたり、べつのものを派生させたり、変幻自在に生成していくことを期待しています。雑誌「広告」のほうは、これまでとはちがった文脈と性格をもった雑誌に生まれ変わる予定です。もう、プロジェクトどもに寄生されたり振り回されたりするようなことはないでしょう。長らくご迷惑をおかけしました。
future social designというキーワードを決めるとき、最初は「フューチャー」に対して少し抵抗がありました。この言葉がつくだけでリアリティが軽減されてしまう、絵空事に終わる言い訳になってしまうという懸念がありました。それよりも、ソーシャルデザインをやるのだ、とハードに言い放ちたいと思ったのですが、雑誌の企画としての軽やかさが必要と考えて最終的には削除しきれませんでした。しかし、この未来という方向づけをされたことで、fsdはアクティビティであると同時に理念になりました。アースデイマネーやシブヤプロジェクトといった現実のアクティビティが具体的に展開していけば自然にフューチャーは不用になるだろうと思っていたのですが、逆にますます欠かせなくなってきました。〈80年代には未来なんて言葉は恥かしくて口にもできなかった。でも、いまは未来を語らないやつのほうがバカだよ〉と坂本龍一さんも言っていました。未来は希望であり、プロジェクトはつねに希望を未来に託すものです。希望のないプロジェクトは容易に旧パラダイムの論理に回収されてしまいかねません。
最後に、fsd1からの引用でこの稿を締めくくりたいと思います。一年間、「広告」誌上でfuture social designを応援いただいて、ほんとうにありがとうございました。
──むしろ未来のことを考えるのって、すごく楽しくないですか。いまをよりよく生きるハウツーを考えたりするよりも、ずっと夢中になれるんじゃないですか。未来や社会のことにコミットしていくほうが、目先の儲け話よりずっとおもしろいと思いませんか。
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『広告』2002年3月号 vol.351
特集「future social design vol.7 HOPE」
▶ こちらよりご覧ください
※2002年2月15日発行 雑誌『広告』vol.351 特集「future social design vol.7 HOPE」より転載。記事内容はすべて発行当時のものです。