見出し画像

41 文壇のヒエラルキーと「パクリ」の境界線 〜 小説家 島田雅彦 インタビュー

長年、書店で働いていると、本が好きな人によく出会う。同僚、お客様、友人問わず、気がつけば、読書家ばかりに囲まれていると感じる。大抵は私と同じように「どんな本でもおもしろければ読みたい」という人ばかりだが、ときどき、こう言われることもあった。

「そんな本ばっかり読んでないで、ちゃんとした作品も読みなよ」

噛み合わないなあ、と思った。「そんな本」って、バカにしたような言い方、しなくていいのに。大多数ではなくとも、文学的価値の「上か」「下か」で作品を判断し、より上に位置する作品を読むべきである、という考え方なのだろうと思った。

そういった意見を聞くたび、私の頭のなかには疑問符が浮かんだ。その「上か」「下か」の判断はどこで行なっているのだろう? 誰が決めたのだろう? 「ちゃんとした」本の定義とは、一体何なのだろう? あるいは、こういった「暗黙のルール」は、書店業界や文壇の世界では、あたりまえに、誰しも理解しているものなのだろうか?

新人賞「パクリ問題」で覚えた違和感

書店で働くようになって6年が経った。薄ぼんやりとした違和感は、業界独特の習慣や空気に慣れてきたこともあり、徐々に意識の隅から消えつつあった。そんなときである。とあるニュースに触れ、あれ、と私は思った。

2018年、2019年の芥川賞選考で、「パクリ問題」が挙がったのを覚えているだろうか。2018年に候補作となった北条裕子さんの『美しい顔』(講談社)は、東日本大震災をテーマにした作品だった。避難所で暮らす被災者たちの生き様を克明に描いた点は評価されたものの、先行するノンフィクション作品と酷似した描写があると指摘された。結局、芥川賞候補からの取り下げなどには発展しなかったが、講談社は『群像』8月号で参考文献と謝罪文を掲載した。

北条さんの場合、そもそも参考文献の記載がなかったという問題がひとつ。だが、「ノンフィクションを模倣して、フィクションをつくる」というやり方自体も、慎重に取り扱われるべきセンシティブな問題であったようだ。

また、翌2019年の芥川賞候補作となった古市憲寿さんの『百の夜は跳ねて』(新潮社)の選評でも、古市さんの「参考」の手法について指摘があった。こちらは、北条さんのケースとは議論となるポイントが少し違う。

古市さんは、参考文献として、木村友祐さんの短編小説『天空の絵描きたち』を挙げていた。木村さんに取材をし、許諾も得た。ルール上はまったく問題ないはずだ。

ならば、どんな点が、批判されたのか。それは、『天空の絵描きたち』が書籍化されておらず、雑誌『文学界』(文藝春秋、2012年10月号)でのみ発表された作品だったということだ。

芥川賞の選評では、このような指摘があった。

山田詠美さん「真似や剽窃に当たる訳ではない。(中略)もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」

川上弘美さん「ものを創り出そうとする者としての矜持に欠ける行為」

吉田修一さん「盗作とはまた別種のいやらしさ」

書店員として働くなかで覚えた違和感が、またじわじわと膨らんで、大きくなっていくのがわかった。そしてその違和感は、木村さん自身が選評について言及したツイートを見て、ますます膨張した。

「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、“知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家”ではありません。知名度はないけど。」(2019年8月12日のツイート)

この噛み合わない感じは、何なのだ。もし、木村さんが「知名度がない」作家でなく、たとえば10万部超えを連発するようなベストセラー作家だとしたなら、このような書かれ方はしなかったのだろうか?

古典ならOK? 正しい「パクリ」の線引きとは

パブロ・ピカソはかつて、こう言ったという。

「優れた芸術家は模倣する。偉大な芸術家は盗む」

つくり手は誰しも、子どもの頃から芸術に触れ、言葉に触れ、数え切れないほどの影響を受けながら自身のオリジナリティを見出していく。まったく模倣することなく、新たな作品をつくるということは不可能だ。

けれども、最近の世の中では、やたらと「パクリ」だなんだと批判されているのを見かける。あるいは、SNSが発達してきたということも要因かもしれないが、一般人ですらも、「これってパクリじゃないの?」と指摘する場面があるように思う。

ならばそもそも、「パクリ」とは、何なのだろう。「盗作」「剽窃」といった、ネガティブな意味で捉えられることが多いけれど、では「模倣」もいけないことなのか? 「参考」は? 現代の世の中では、「パクリ」という言葉は、あまりに多義的すぎる。

古市さんのように、自分よりも知名度の低い作品を模倣するやり方は、「やってはいけないこと」なんだろうか。

選評には、こう書いてあった。

山田詠美さん「小説の参考文献に、古典でもない小説作品とは、これいかに」

川上弘美さん「いわゆる『古典』ではない小説が参考文献に? と驚き」

これを読む限りでは、模倣をするのは、古典作品でないとダメ、というルールがあるようにも思えてしまう。

あるいは、私が書店員時代に抱き続けてきた、文学ジャンルのヒエラルキーのようなものがあって、古典文学はどの文学作品よりも価値が上で、価値が上とされている作品の模倣はいいけど、下とされている作品の模倣はNG、など、私たちが知らないルールがあるのかもしれないとも思った。

私はこれからライターとして、様々な作品に影響を受けたいし、その上で自分にしか書けない作品を生み出したい。ならば、正しい「パクリ」と、正しくない「パクリ」の境界線をはっきりさせておきたいと思い、今回、文学界にかかわりの深い方に取材することにした。

話を伺ったのは、2010年から芥川賞の選考委員を務めている、小説家・島田雅彦さんである。1983年、『優しいサヨクのための嬉遊曲』(新潮社)でデビューした島田さんは、大学在学中に文学の世界に入った。以来、芥川賞にも6回ノミネートされており、「芥川賞最多落選作家」としても有名だ。

11月某日、島田さんが教鞭を執られている法政大学の研究室へ、足を運んだ。

ここから先は

11,525字
この記事のみ ¥ 200
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

最後までお読みいただきありがとうございます。Twitterにて最新情報つぶやいてます。雑誌『広告』@kohkoku_jp