35 著作権は文化のためになっているか
著作権は、作品の価値が高まるのを阻害する
何かを創作した人が、自分の創作物をコントロールするのは当然だ。なぜなら、それが著作権というものだから。私たちはそう考えるかもしれないが、そもそも著作権とは一体、なんのためにあるのだろうか。たとえば、子どもの頃、誰かがおもしろい遊びのルールや言葉を「発明」すると、みんながそれを真似たり、アレンジして「進化」させたことを思い出す。あるいは、宴席で流行りの芸人のものまねをする人もいるかもしれない。そこに芸人本人がやってきて、「これは自分が考えた芸なのだから無断で使うな」と言ってきたら?
正しいかもしれないが、どこか釈然としないのも確かだ。遊びのルールや言葉、芸人のセリフや身振りは、ほかの「モノ」とは違って、他人が使っても減ることがない。文章や映像、音楽もそうだ。そして、多くの人がそれを使うことで、価値が上がるとすら言ってもいい。
逆に言えば、どれだけおもしろくても、誰にも共有されなければ存在しないのと同じである。作品の共有は、作品の価値も作者の価値も高めてくれる。
ところが、著作物の複製を禁じる現在の著作権制度は、その「共有」にブレーキをかけているとも言えるのだ。
コピーは市場を回す「燃料」
人々が創造性を発揮する領域すべてが著作権で保護されるわけではない。
コンピュータプログラムが著作権法に明記されたのは、日本では1985年以降のこと。レシピ、スポーツやゲームの戦略などはいまも著作物として保護されていないし、先に例としてあげた芸人のネタもそう。ファッションデザインは意匠権、不正競争防止法などで保護されているが、EU諸国を除いて、そのほかの国々ではやはり著作権保護の対象外だ。
ではこれらの領域で、音楽や出版と比べて創作が低調かというと、そうではない。毎年のように新しいものが考案され、魅力的なものはコピーされ、アレンジされていく。みんなにコピーされれば、陳腐化は避けられない。そこで、さらに新しいものが考えられていく……著作権によるブレーキがないことで、これらの市場はダイナミックに循環し、よりイノベーティブになっているとも言える。
たとえば、ファッションデザインの業界を見てみよう。デザインを「パクった」安価な商品が出回ると経済的な被害があるように思えるが、実際には、そのマイナスは小さいと言われている。というのも、ハイブランドの商品とコピー品とではターゲットが異なるからだ。ハイブランドを買う人の多くは「そのブランドから出ている服である」ことに価値を置き、コピー品には見向きもしない。
また、コピーが出回るということは、そのデザインが流行しているという証でもあるので、元のデザイナーの評判を高めてくれる一面も否定できない。コピーという「燃料」が出回ることで、流行のサイクルが早まり、新しいデザインへのニーズがシーズン毎に生まれ、より多くのデザイナーがチャンスに手を伸ばせるようになる。
仮に、ファッションデザインが世界的に保護され、流行のサイクルが緩やかになれば、こうした循環は狭い範囲のものとなり、業界全体がシュリンクしてしまう可能性もあるのだ。
著作権制度は複製業者のためにつくられた
こうした著作権で保護されていない領域の事例を見ていくと、著作権は作品や作者の価値が高まることを阻害し、創作のサイクルにブレーキをかけているように思えてくる。それでもなお、著作権制度が必要とされるのはなぜだろう?
いまの私たちからすると、著作権制度は作者を保護するというイメージがある。しかし、その歴史をひも解くと、著作権制度はまったく異なる思想からスタートしたことがわかる。
そもそも、作品を複製(大量生産)して流通させるにはコストがかかる。書籍であれば印刷や製本、音楽であればCDの生産のように、著作物を広く世に届けるには莫大な設備投資が必要だ。大量に複製してもまったく売れないというリスクもある。昨今では消費者に著作物を認知してもらうための広告・宣伝費もバカにならない。
こうした環境の下では、売れるとわかっているものを複製する「タダ乗り」がもっとも合理的な戦略だ。しかし、誰もがタダ乗りを狙っていると、新たに作品を創作する者がいなくなってしまい、ちまたにはコピーばかりが出回ることになる。
それならば、最初に複製を行なった者に次なるタダ乗りを排除する権利を与えればいいのではないか……著作権はそんな発想から生まれていた。複製業者の保護が先で、作者の保護は二の次だったのだ。
最後までお読みいただきありがとうございます。Twitterにて最新情報つぶやいてます。雑誌『広告』@kohkoku_jp