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続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識
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続・虚実と世界 〜 アニミズムと世界認識

雑誌『広告』

哲学者 清水高志× 『広告』編集長 小野直紀
『広告』虚実特集号イベントレポート

3月1日に発売された『広告』虚実特集号にかかわりの深い方々をお招きし、オンラインでのトークイベントを開催しました。今回は、3月19日に青山ブックセンターの主催で行なわれたイベントレポートをお届けします。ゲストは、虚実特集号の巻頭対談「84 虚実と世界」にご登場いただいた哲学者の清水高志さん。その続編として、対談後に発売された清水さんの著書『今日のアニミズム』(以文社)を踏まえつつ、哲学や文化人類学の観点から現代における世界認識のあり方について編集長・小野直紀がお話を伺いました。

『今日のアニミズム』発刊後に見えてきたもの

小野:『広告』虚実特集号で対談させていただいたのが昨年の10月でしたね。今日は対談後の12月に発売された『今日のアニミズム』の内容も踏まえてお話を伺いたいと思っています。

清水:虚実特集号の対談では、まだ自分のネタを温存というか半分隠したような状態でお話ししたので、わかりにくいところもあったと思うんですよね。『今日のアミニズム』で手持ちの駒を全部出して、出版後に今日みたいな対談をすることも増えて、自分でも全体像が見えてきました。改めて思うのは、『今日のアミニズム』はレヴィ=ストロース的だったなと。

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小野:
「まえがき」で、このタイトルはレヴィ=ストロースの名著『今日のトーテミズム』にあやかって題されたと書かれていたので、レヴィ=ストロースへの興味を深くもたれたうえで執筆されたのかなと思ったのですが。

清水:『今日のアミニズム』を書いたことで、さらに興味は深まっています。レヴィ=ストロースが神話や無文字文化の意味体系を解釈するために用いた「構造分析」という方法をミニマムに圧縮して、哲学やほかの領域をまたいで現れてくる普遍構造をごくシンプルに分析してみたかったんです。

構造主義の中心人物だったレヴィ=ストロースは、ポスト構造主義へ移り変わるプロセスで、掘り下げられないままになってしまいました。しかし、彼は人類に普遍的な「人間の無意識」を発見して、その構造を分析しようとしました。これは、フロイトによる抑圧された個人の無意識の発見をはるかに超える大発見でしたが、充分に検討されてこなかったんです。

小野:レヴィ=ストロースのないがしろにされてきた部分に光を当てようとされたんですね。

清水:はい。自分で書きながら光を当てたい欲求をすごく持ちましたし、そうすべきだとも思いました。レヴィ=ストロースを介して、2世紀のインド仏教僧で中観派の祖・ナーガールジュナ(龍樹)が書いた『中論』がやっとわかる。さらにプラトンの思想なども踏まえてぐるぐる回していくと、人類が考えてきたことが東洋でも西洋でもわかってくるんです。

小野:おもしろいです。清水さんは20世紀の思想を引き継ぎながら、現代哲学を更新していこうとされるなかで、文化人類学と哲学を掛け合わせる試みをされていて、その入り口にレヴィ=ストロースがあるという印象を持っています。なぜ、文化人類学と哲学を掛け合わせようとされたのでしょうか。

清水:虚実特集号の対談でお話した内容とも重なるのですが、異分野を掛け合わせる背景には、いろんな分野で多世界論が共有されはじめているというのがあります。多世界論とは、異なるパースペクティブで見る世界が重なり合い、しかもひとつに統合されていないという世界観です。

仏教の唯識という考え方では、同じ水を見ても天人には「宝石で飾られた池」に見え、人間には「水」、餓鬼には「血膿」、魚には「住みか」と、それぞれに異なる認識を持つことを「一水四見いっすいしけん」とたとえます。今日の人類学は、これをパースペクティブ主義や多自然主義というテーマで書き起こしてきました。

哲学でも、ドイツの哲学者のマルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)において、一切を包摂する世界はなく「意味の場」としての「世界」が入れ子になっているのだと論じました。あるいは、もう少しわかりやすい例で言うと、コロナ禍で人が集えなくなるなかで、みんなが見ている世界がバラバラになっていますよね。世界そのものは多自然的なのですが、様々な領域で語られはじめた多自然論をまたぎ、全部を統一した哲学を僕はつくろうとしているんです。

レヴィ=ストロースから解釈する世界の構造

小野:いろんなジャンルの世界が同時にあるという世界認識は一般的なものになりつつある。それを踏まえて、清水さんがつくろうとしている「全部を統一した哲学」について聞いてみたいです。

清水:僕がやろうとしたのは、二項対立をいくつもつくって一巡させるということです。レヴィ=ストロースは、神話のなかに二項対立があったら、それをいくつも増やして複雑にそれらの関係を読み解いていきました。神話の思考では、「男と女」という二項対立があるなら、「両性具有」「無性者」と両者を媒介するような中間のものを「第三項」としてとりながら、最初にあった「男と女」の起源を説明するように、ぐるっと一巡するんですね。それによって構造ができて、差異の体系ができているのが神話だと、レヴィ=ストロースは言っていたんです。

たとえば、「火にかけたものは文化的で食べられる」「生のものは自然のままのもので食べられない」という考えがあるとします。しかし、タバコは火にかけても食べたら死んでしまうし、ハチミツは火にかけなくても食べられる。こういうものを「媒介」、ぐるっと回って永遠に原理を遡行しなくてもいい構造をつくっているものを「縮約」と言います。「媒介」と「縮約」によって神話を考えることができるんです。

小野:『今日のアミニズム』では、レヴィ=ストロースの「縮約」と仏教を関連づけて論じられています。

清水:ナーガールジュナは『中論』などで、「《A》がなければ《非A》がない」「《非A》がなければ《A》がない」という構造を、縁起にまつわる「相依性そうえしょう」というあり方で説きましたが、あれも実は「縮約」をつくっているんです。

インド論理学では、「《A》がある」「《非A》がある」「《A》かつ《非A》」「《A》でも《非A》でもない」という、第一レンマ、第二レンマ、第三レンマ、第四レンマと呼ばれるものを駆使するんですが(四句分別)、それは構造の論理なんですね。十二支縁起(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死→無明……の繰り返し)でも、重要なのはそれぞれの構成要素ではなく、実はループ構造なんです。

縁起で語られていることは、人間の煩悩の増大、生成の局面です。「無明があるから行がある……」といったように。しかしナーガールジュナは、縁起の本質がこのループ構造そのものであることに気づいた。そうすると、「《A》があるから《非A》がある。《非A》があるから《A》がある」という関係になるんですが、これは《A》と《非A》をまたいだ第三レンマな「中」にあたるものです。実際には、そのループのなかでは、すべての要素が順々にこうした第三レンマになる。しかも逆観といって、このループ構造を「《A》がないから《非A》がない。《非A》がないから《A》がない)という風に逆転させることを仏教では説きますから、原因においては・・・・・・・「《A》でも《非A》でもない」という第四レンマが成り立つ。非常にミニマムで抽象系ですが、釈迦が縁起と「離二辺の中道」というかたちで「どちらの極にも行かない」第四レンマを最初から語っている背景には、レヴィ=ストロースが「第三項による媒介」とか、「縮約」とか読んだものがあるのです。

たぶん、仏教以前の神話の思考、野生やアニミズムの思考を、仏教がそういうかたちで抽象化したんです。だからこそ、その構造にいろんな地域のいろんな「野生の思考」が融和して、むしろ温存されたところもあると思います。たしか、レヴィ=ストロースも、仏教が早くに成立したからそれらが融和されたということを言っていました。ある意味、日本も聖徳太子の時代に仏教を採用したからこそ、各地の宗教やシャーマニズムを統合できたところがあると思うんですね。

僕は「文化の核心部分は何でできているか」という理屈を考えてみたかったんです。たとえば、「人間と自然の関係(主体/対象)」「一/多」「含む・含まれる(内/外)」という三種類の二項対立「トライコトミー(trichotomy、三分法)」を考えるとします。多くの場合、こうした二項対立は、「主体」に「一」というバイアスがかかっていたり、対象に「多」というバイアスがかかっていたりしますし、その逆パターンもあります。

三種類の二項対立を混ぜ合わせツイストさせて解くと、永遠に原因を遡るわけでもなく構造ができるのではないかというアイデアだったんです。最近は、プラトンをレヴィ=ストロース的に読んでいます。プラトンも二項対立を複雑化しているのですが、レヴィ=ストロースを補助線にすると「あ、これは野生の思考だな」とわかる。むしろそう読まないとわからないところがいっぱいあるんですよ。

人間は生理学レベルで複雑で多様なものを見分けることができる

小野:清水さんは哲学と人類学を結びつけるなかで、初期の仏教者やギリシャの哲学者も同じようなことを考えようとしていたと発見されました。しかし、西洋では循環させて二元論を超えていくことはできなかったため、ギリシャの二項対立、二元論にもとづいて、客観的な唯一の世界があるというような思想がかたちづくられていき、キリスト教のような一神教も生まれ、人間中心主義が西洋思想の主流になっていきました。

虚実特集号の対談では、こうした人間が主体でそれ以外は客体であるというような関係を批判というか、否定したというのが非常におもしろいなと思いました。その根幹にあるのが、仏教やソクラテスの思想より以前にあったアニミズムだということでしょうか。

清水:アニミズムがあるし、二項対立を組み合わせて世界を複雑に弁別するというのがあるんです。レヴィ=ストロース以前に、ロマン・ヤコブソンというロシア生まれのアメリカの言語学者は、人間の言語の最小単位「音素」の研究をしました。ヤコブソンは、トルコ語には8つの音素があり、そのひとつの音素がそもそも3種類の二項対立の組み合わせでできていると考えました。舌を奥のほうで盛り上がらせるか前のほうで盛り上がらせるか、唇を丸くするか尖らせるか、口を開くか閉じるか。それを組み合わせていくと8つの音素ができます。つまり人間は生理学レベルで、二項対立の組み合わせの多様性で、複雑なものを見分けるようにできているんです。

漢字にも表意文字と表音文字がありますね。スペルの組み合わせで複雑さを出す言語と、文字そのものが多様な言語があります。組み合わせで多様性を出すほうに人間の生理があるのだとすると、いちばん単純なのは「プラスか、マイナスか」です。プラス・マイナスで弁別して、その種類が有限箇の二項対立で母音ができ、子音も同じようにできて、組み合わせると無限かつ複雑になる。その区別をしているのはおそらく人間の無意識なんですよね。

フランスの哲学者 ジャック・ラカンは「無意識は言語として(のように)構造化されている」と言いましたが、無意識は「人類の無意識」によって言語のように共有されているんです。二項対立の組み合わせだけでなく、隣接性や含む/含まれる関係などによって、修辞学でいうところの比喩「メタファー(metaphor)」「メトニミー(metonymy、換喩)」などを駆使することで、世界の様々な具体物が複雑に弁別され、日常的な推論も多くはこうしたものによって成り立っています。

たとえば、フランスの詩人 シャルル・ボードレールの「猫」という詩を分析すると、こうした組み合わせでできていることがわかります。神話というのは、世界を説明したくて世界をひとつのものに還元するのではなく「世界って複雑だよね」と感じたくて、こうした組み合わせを駆使してつくられていると思います。還元せずに、伸縮自在なフリーハンドをいかに存続させるかということをやろうとするんですね。だから、一見すると不合理なことを語るのですが、神話のなかではオチがついていて解決されている。それが、神話を語る人たちにとっての倫理だったりするんです。

小野:なるほど。

清水:レヴィ=ストロースが南米の先住民に見出した、「自然と文化が分離している」という考えも、ギリシャ人の「イデアと感性的世界が分離する」という考えも、何種類かの要素をたどっていくとわかるのは、「含む/含まれる」関係をどう考えるかということが人類にとって実に大きいんですね。これについて、僕は『今日のアニミズム』で「トライコトミー」という方法論を用いて語りました。

二元論的世界観のモデルを多世界論へと変えていくために

小野:「トライコトミー」が非常におもしろいのは、「一/多」「含む/含まれる」に、第三の二項対立として「主体/対象」を入れると、「人間が主体で、それ以外は対象である」という考え方では説明できないことが証明されることです。また、世界は人間と自然や動物やものなどとの関係性によって世界が成立しているという考え方がそもそも違うという説明が、非常に腑に落ちたんですね。まさに、コペルニクス的転回だなと。

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清水:
本当にそうですよね。環境の問題、IT環境も含めたわれわれがいるネイチャーの問題を全部考えようとしたら、主客二元論とは異なる世界観を提示しなければいけないのですが、いまはまだ政治モデルすら古いモデルを引きずっています。「トライコトミー」のようなかたちで組み替えないといけないというモデルを提示するのは大事なことだったと思います。

小野:「主体/対象」「一/多」「含む/含まれる」という「トライコトミー」の考え方で二元論を克服していこうとしたとき、結果的に現代的な考え方にものすごくマッチしているなと思いました。虚実特集号では、メタバースを考察した「87 セカンドライフ社会学」という記事のなかで「自分というものも世界というものも多様である」ということが書かれているんですが、多角的な世界が広がっていると考える多世界論に近い考え方ではないかと思いました。これは偶然なのでしょうか。

清水:多世界論的に捉えなければ現代を考えられません。虚実特集号で取り扱われていたいろんなテーマも、なんだか多世界論的な話になっていたじゃないですか。

小野:そうですね。

清水:落合陽一くんが言う「デジタルネイチャー」もやはり多自然的なものなんですね。人類学からかけ離れたところにいるAI系、情報系の学者と話していてもそうなりますから、いろんな分野をつないで考えていかないといけないテーマなんですよね。

小野:すごくおもしろいです。虚実特集号をつくる際に、いろんな文献を当たっているとやはり構造主義がよく出てきて、構造やメディア、文化みたいなものによって僕らの価値観が形成されているという考え方が20世紀に流行したことがわかりました。ただ、ジャン・ボードリヤールが唱えた記号消費にしても、たとえばコップを買うときに「コップ」という記号を買っているだけじゃない、コップというもの自体も買っていると思ったんです。虚実特集号の対談でも話していただきましたが、自分は自分の周りにあるものに影響を与え、またものも僕らに影響を与えているという、フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールらが提唱した「アクターネットワーク論(Actor-Network-Theory、ANT)」の考え方はすごく腑に落ちました。

唯一の世界のなかに人間がいて、対象があるということではなく、清水さんが話していたように、無数の結節点をもつ網の目状の世界があって、その網の目のひとつが自分であり、自分の家族であり、自分が持っているパソコンであり、コップであり……というような。それらが結びついて世界ができていて、コップが中心になったり、僕が中心になったりと、いたるところに中心と周辺があるという世界観を頭に描けたとき、これは現代のインターネットの考え方にまさに当てはまるなと思いました。

清水:現代のWorld Wide Web(WWW、インターネットを通じて公開されたウェブページが相互に接続されたシステム)もそうです。そうやって、現実のリアルなものにフックがかかりつつ、交換しあっているという感じですよね。また、その感じが仏教的なんです。あらゆる物事が相互に無限に関係し、作用しあっているとする、華厳思想の「重々無尽」の世界は、「インドラの網(因陀羅網)」のようなものとして説明されています。「インドラの網」は、帝釈天が住む宮殿を飾っている網とされていて、無数にある結び目の一つひとつに宝珠があり、それぞれに宝珠に他の宝珠が映りあっているんです。この状態を「相即相入そうそくそうにゅう」と言います。

日本美学は「一のなかに多がすべてある」という考えから多くを汲んでいて、千利休が完成させた「わび茶」も系譜を遡ると一休宗純禅師に行き着くんですね。華道や茶道も「縮約」した世界のなかに多様なものを入れていきますし、レヴィ=ストロースも、神話は要素の項からボトムアップで全体ができるものではなく、項とそれらの関係がフラットに、お互いに入れ子になっている構造が神話だと言うんですね。いろんな神話が循環していくという発想で、「神話公式」というかたちでモデル化もしています。神話のなかの項の役割がこっちとあっちで逆転しているとか、ブリコラージュとか、ああいう置換が起こってくるのもこうした構造だからです。

多世界を読み解くヒントは「過去を正しく読み解くこと」

小野:さきほど「一/多」の関係のところで、華道のお話がありましたね。生け花自体がひとつの宇宙というか、美のなかに多様なものが含まれていて、それ自体もまた世界のなかにあるというような、華厳思想の「一即多、多即一」を関連づけられていました。『今日のアニミズム』では、もうひとつ文化人類学者の岩田慶治さんを引用されていました。また、岩田さんが惹かれた人物として、19世紀ドイツの博物学者で地理学者、冒険家だったアレクサンダー・フォン・フンボルト晩年の主著『コスモス』にも触れられていました。

岩田慶治さんは、地球上のあらゆる現象を綜合し、そこに「美的統一体」を見出そうとした「コスモス」と、それに対置される全体概念として「マンダラ」というものについて語っている。岩田さんは小さな庭を縁側から眺め、その庭自体に美しい宇宙「コスモス」を見る。今度は、庭の真ん中に歩み出ると、今度はそこに「マンダラ」が成立する──この話も、「一即多、多即一」の考え方につながる感じがします。

清水:そうですね。客観的に眺めているだけではダメで、ネットの世界のように投げては受けてという感じで、リアクションを得ながらでないと成立しない世界にわれわれは生きているんですね。全体像が見えるわけではないのですが、構造が似ているから「こうなんだ」と予想がつく。『今日のアニミズム』を出したこと、こうして対談していることも含めて循環構造ですよね。

小野:もうひとつ、『今日のアニミズム』で「循環」という言葉がよく使われていました。僕のなかでは構造主義的に世界を俯瞰してみて、こういう構造があるがゆえに僕らはこういう価値観や文化を持っているのである、と。一方で、僕は記号のために何かを消費したり、構造があるからこういう動きをしている「だけ」ではなく、自分自身の主体性をもって動いたり、もしくはそこにある何か身近なものに影響を受けたりして、ものを買ったり価値を判断したりもしています。そこの往復をしないといけないんだろうなと思ったのですが、それを「循環」という言い方をされているのがおもしろいなと思っています。それが「トライコトミー」、3つあるから循環する、循環するからこそ成立する二項対立の克服ということですよね。

清水:そういうことです。仏教的には、もう「業として生まれてくる」みたいな使われ方なんです。こういう情念を発すると、こういうリアクションがあって、こういうものがあるという世界観にとらわれるというかたちで説明するのですが、やはりそこでも「眼識」「耳識」などいろんな感覚のモジュール(見分)が、対象世界の現れとしてのもの(相分)にぶつかって、そこから返ってきたもので世界を構成し……というようなことを考えています。また、そうしたグループを含んで自覚しているもうひとつの自証分というものがある。このひと揃い同士が、またお互いの相分のなかに相互入れ子になってネットワークをつくっていると言うんです。仏教も本当にクリアにいまの世界のあり方を言い当てていますね。

神話の思考や野生の思考が持っているのも、人類の無意識の現れ、個人を超えた何かですよね。レヴィ=ストロースはそういう無意識を発見し、仏教は仏法によって真理を解き明かそうとしました。それをもう少しアップデートすると、多世界的になった世界の謎を読むこともできます。

小野:読ませていただいて、まさに現代の多世界的なあり方がすごくわかるなと思いました。複数の世界が複雑に循環していて、多様な人間がそれぞれに世界を持っていると同時に、自分自身も多様な世界を持っている。空間としても、メタバースがあり、地球があり、想像の世界もあるという、いろんな意味の世界が複雑に絡み合っています。

今回特集した「虚実」は言葉としては二項対立ですので、「嘘/本当」「フィクション/リアリティ」「イメージ/実体」「バーチャル/フィジカル」「心/体」「形而上/形而下」と、二項対立をつくるいろんな言葉を当てて考えていきました。ところが、いま挙げた言葉たちも混ざり合いながら「虚実」があるのだと見えてきたので、清水さんに巻頭対談をお願いしました。その後、制作するなかでテトラレンマの話などを実践していった感じが自分のなかにあります。

アニミズムは世界を再構築していくヒントになる

小野:「テトラレンマ」や「トライコトミー」は論理的であり、理性的な理解じゃなないですか。一方で、清水さんは「アニミズムを『本物の宗教』にしなければならない」ともおっしゃっています。おそらく、アニミズムには現代の人たちが改めて社会を再認識し、世界を再構築していこうとするときに、ヒントになるのだろうなと思います。

『今日のアニミズム』には、アニミズムは日本人的なものであり、宗教、アート、文芸など、芸能の核でありいまなお種であるということが書かれていました。その文脈において、スタジオジブリの『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』や新海誠監督の『君の名は』などの大ヒット映画にも、明快にそれが現れている、と。

清水:「自分はアニミストです」と名乗る人はたくさんいるんですよね。日本人は、アニミズムを自明のものと思っているところがあります。『千と千尋の神隠し』なんていっぱい出てきますね。すごく古い物語の種を混ぜ合わせてリニューアルしている感じがします。

小野:アニミズムという概念は、西洋の人々のなかにもあるのでしょうか。

清水:たとえば、ドイツの詩人 ハインリヒ・ハイネに言わせると、ドイツ人はむしろアニミズムで汎神論なのに、それを抑圧しちゃっているからグレてしまった(笑)。フランス人やイタリア人は偉大なギリシャ・ローマ文明が残っているからバカにされませんし、あまり拗ねなくていいんです。ドイツ人にはそういうものがないから、ハイネに言わせると抽象化してしまったんですね。ユダヤ人も抽象化して一神教にしてしまって、こういう人たちも最後には往々にして「宇宙のすべては神だ」と肯定するのですが、ちょっと不自然かなと思います。

小野:キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教が、構造的に西洋の価値観を狭めてしまったということでしょうか。

清水:そうですね。二分法(ダイコトミア)によってコントラストをつくるとか、第三項を見出すとか、縮約をつくるという思考を狭めてしまったんですね。

小野:大学のときにアイルランドに留学したのですが、アイルランドの十字架はケルトの太陽信仰を示す円と十字架が合わさっています。アニミズムの側にいた西洋の人たちが、キリスト教を受け入れていくなかで、西洋的な思想をつくっていったということなのかなと理解しました。

清水:十字架の形はクロスしているじゃないですか。反対のものが二極になるとして十字架を解釈していったものもあるんですね。それこそ、ドイツの哲学者であり数学者ライプニッツは、『結合法論』の冒頭で、水・火・風・土の図を掲げていますが、薔薇十字からそのシンボリズムを採用しています。

ミシェル・セールと共同研究を行なっていた、フランス出身の批評家ルネ・ジラールは、欲望とは対象からもたらされるものではなく、他者の欲望を模倣することから始まるので満たされることはないと、対象、他者、自分からなる「欲望の三角形」を考えました。自分と他者は欲望を模倣しあい、対象を奪い合うので緊張関係が生まれます。すると、欲望された対象がスケープゴートになって殺されて、殺したものたち同士はその罪の連帯によって和を結ぶ。しかし、このスケープゴートの位置はぐるぐる回っていくもので、本来誰もがスケープゴートになりえます。ジラールは、これがキリスト教だと言っています。第三項の位置をぐるぐる回すものとしてのキリスト教ですね。

二項対立に「第三項」を増やして無意識を掘り起こす

小野:世界の捉え方としての「トライコトミー」の考え方ですから、キリスト教を除外する必要はないですよね。でも、二項対立から脱却するためと言いながら、どうしても二項対立を用いてしまうのはどうしてなのでしょう。

清水:世界の弁別が二項対立的なので用いざるを得ないんです。ただ、神話に両性具有が出てくるように、「第三項」が両方を兼ねるという「調停」をもって一巡すればいいんですよ。ただし、それが無限遡行にならないようにはしなければいけません。

小野:なるほど。20世紀のポストモダンにおいても、二項対立を乗り越えようとしたところはあります。デリダの脱構築やヘーゲルの弁証法は不十分であったということも『今日のアニミズム』には書かれていましたね。

清水:脱構築主義も弁証法も、ある二項対立の解決法を別の二項対立に当てはめていくけれど、一巡しないのがダメだなと思います。

小野:物事を理解するには、あえて二項対立を増やしていくという行為がいいんだなと思いました。『広告』の次号特集は「文化」なのですが、「文化/自然」「文化/科学」「文化/経済」とどんどん二項対立をつくることによって、考えるヒントが生まれてきます。

清水:それはありますね。ひとつの色を見ているとその補色が見えてくるように、人間の弁別機能自体がそのようになっていますから。音楽も、ラヴェルの『ボレロ』などは、「縮約」しながら繰り返して、変奏しながら縮約形をとって終わります。レヴィ=ストロースは、神話もそのようにしてあると言っていて、なるほどと思いました。

小野:『今日のアニミズム』に書かれていた、画家のマックス・エルンストが座右の銘にしていたという、ロートレアモンの詩の一行「解剖台の上でのミシンと洋傘の偶然の出会い」のお話もおもしろかったです。「洋傘/ミシン」という対立を置いたときに、「先端に突起がついている洋傘」「腕木の下に針が付いているミシン」など対立と対比が見えてきます。「第三項」を加えてぐるぐる回す感じがすごくイメージできたなと思いました。

清水:「解剖台」という第三項と結びつくことによって、「洋傘/ミシン」の有縁性が見えてくるんです。解剖台の上でミシンと洋傘が出会うから、ツイストする場ができるわけですね。そういうことが大事なんでしょうけれど、いまは単純になっていて。そういう意味では、アート系の人などは無意識を掘り起こすことが「縮約」ですよね。美術も建築もそうかもしれない。

小野:アートも単純になっている気がしますね。芸術や神話には、二項対立を「調停」していく役割があり、二項対立を乗り越えていくというお話をされていましたが、いまの芸術でそれができているのか。もしくは、ほかの分野で「調停」できるんでしょうか。

清水:先ほど千利休の話が出ましたが、利休は不均衡で不完全なものに美を見出していて、そこには「トライコトミー」の要素があります。アートでそういうことを表現していくのもそうですし、すでに表現されたものの読み方を変えることで、無意識に表現されたものを見つけることもできますよね。いかにコントラストを出すかということですね。

現代において、主客二元論問題をいかに解いていくか

小野:情報化社会と呼ばれるようになってから、より単純なものが増えている気がするんです。とくに僕は広告業界にいるから、ものを売るためのメッセージをつくらなければいけないとき、非常に単純に受け取れるような言葉をつかったり、イメージをつくったりします。また、SNS上で議論されるジェンダーや環境の問題も、けっこう二元論になりがちだと思うんです。

清水:いま、炎上の仕方が二元論的ですよね。単純化するのは一歩間違うと洗脳になってしまうし、千葉雅也が「白か黒かを迫ってくるものがあるのは問題だ」と言うのはわかる気もします。神話の世界で男と女に加えて両性具有者や無性者が出てくるように、いまはトランスジェンダーやノンバイナリーと次々に出てくるじゃないですか。ある意味、やっていることは同じですよね。

小野:実際に、そういうことが表出してきているということなのでしょうか。

清水:「私の心は男性だ」「私の心は女性だ」と二項で言うけれど、すごくアニミズム的な発想ですよね。そういう前提でいいの? とも少し思います。ジェンダーは完全に社会的な形成物であると言いながら、魂は違うというすごく古代的な考え方も出てきています。

小野:たしかに。生物学的に捉える男女もあれば、社会的に捉える男女もあるけれど、魂で捉えるとなると生物学的・社会的なレイヤーで見るものではなくなるから、心は男性か、女性か、それ以外なのかという話になってきます。ジェンダーを、古い価値観の構造的な見方で捉えるのか、生物学的に捉えるのかしかなかった世界に、多世界論的に「また別な世界があるんだ」とみんなで発見していくことで寛容さが出てくる気がします。

清水:フェミニズムでは、「男性は女性を対象化して見ている」と言うじゃないですか。それは主客二元論問題なんです。「私は対象ではなく、私も主体なんだ」というだけの問題ではないですよね。主客二元論問題をいかに解くかを考えないと、ジェンダーの問題も解けませんよ。

小野:主客二元論問題は、現代において解決しないといけない問題のひとつじゃないですか。地球と人間という対立構造を見たときに、人間が主体で地球が客体として扱い、影響を及ぼしてきた時代を呼ぶ「人新世」という言葉も、20世紀における人間中心主義から生まれた言葉だと思うんです。それを超えていかなければいけない現代において、二元論の克服とアニミズム的な考え方が必要になってきているんだろうなと思います。今回、「虚実」という特集では、まさに世界をどう認識するのか、つくられたものをどう捉えるのかを考えたかったんです。

清水:『今日のアニミズム』を出してから、人類学者や仏教学者などとお話してきましたが、今回小野さんとお話して、現代の消費社会、情報化社会というところまで拡張して読んでくださっていてうれしかったです。

小野:「虚実」を考えるなかで、多様な世の中を構造的にも実存的にも見ていく多視点も重要である一方で、自分が信じるものを見つけていかなければいけないと思いました。だけど、多世界であること、多視点が必要であることに向き合い切らずに、物事の判断や価値づけをすると主客二元論に加担してしまうことになります。『今日のアニミズム』はまさにこの時代に読まないといけない本だと思いました。少し難しいので、何度か噛み締めないと理解できないのですが。

清水:だいぶわかりやすくなったと言う人もいらっしゃるんですよ(笑)。仏教学者とも話していて、ナーガールジュナが何をしていたのかとか、この本でやっと説明できたという感じがあります。学問的には好文献だと言ってもらいました。

小野:仏教、レヴィ=ストロース、神話、アニミズムなどの共通項が、「トライコトミー」によって抽出される。それによって世界の見方を新たに構築していくという経験ができました。まだ理解できていないところもありますが、本を読み直してまた清水さんとお話しできればと思います。今日はありがとうございました。


文:杉本恭子

清水 高志(しみず たかし)
東洋大学教授。井上円了哲学センター理事。専門は哲学、情報創造論。主な著書に『実在への殺到』(水声社、2017年)、『ミシェル・セール──普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013年)。主な訳書にミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(水声社、2016年)、G.W.ライプニッツ『ライプニッツ著作集 第Ⅱ期 哲学書簡──知の綺羅星たちとの交歓』(共訳、工作舎、2015年)など。共著に『今日のアニミズム』(以文社、2021年)などがある。


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今回のトークイベントに参加いただいた清水高志さんには、雑誌『広告』虚実特集号でもご協力いただきました。現在、清水さんと編集長・小野との対談記事を全文公開しています。

84 虚実と世界
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小吉 「我が身を立てんとせばまず人を立てよ」
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博報堂が発行する雑誌。「いいものをつくる、とは何か?」を思索する“視点のカタログ”として2019年にリニューアル創刊。クリエイティブディレクター/プロダクトデザイナーの小野直紀が編集長を務める。最新号の特集は「虚実」。