4_紅いバッグの話

4 花森安治の「紅いバッグの話」 〜 お金ともの、そしてその価値

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高価なものと美しいものと

紅いバッグの話

 なにかのことで、お祝いか法事で、親類縁者が一堂に会した。もちろん、こういうことは、戦後ではなかなか見られないことで、この話は、戦争初期のことと思つてください。
 親類縁者が集まれば、例によつて例の如き雰囲気を呈することは、ご想像のとおりだが、女連れが多いから、したがつて子供も多い、うるさがられて、子供は子供同士、一部屋に追いやられた。そこで、女の子の間で、どの子からとなく、お互いに持つているハンドバッグの品定めがはじまつたというわけである。いまも、そういう風俗がまたはやりはじめているようだが、その頃は、小さな女の子に、こましやくれたバッグを持たせるのが、一部では大いに流行したものである。
 あんたのを見せて、それちよつと持たせて、などとやつているうちに、結局、誰のが一番いいとかいうところへきて、何とかちやんの紅いバッグが一番いいということに衆議一決したらしい。
 たまりかねた一人の子が、ばたばたとお母さんのそばにかけてきて、私にも、何とかちやんのようなバッグを買って、とねだりはじめた。あなたには、この間いいのを買つてあげたばかりじやありませんか、と言つても、何とかちやんのバッグの方がいいと主張して聞かない。何とかちやんの家は、この日、相会した親類縁者のなかでも、暮らしむきからいつて、下の部に属する方である。その子のハンドバッグの方がいいと言われては、内心おだやかならぬものがあつたに違いない。へえ、何とかちやん、どんなバッグを持つてるの、と問題のバッグを検分にきたが、ちらり、一べつをくれるや、その子を廊下の隅へつれていつたものである。
 馬鹿ねえ、何とかちやんのバッグなんて、あれ、お母ちやまのお手製じやないの、お洋服かなんかの余り布で作つたものよ。あんたのは、***屋(古代布、つづれなどを使つた高価な袋物で有名な店)なのよ、ずつと高いのじやありませんか。
 そう言われても、その子は腑におちない顔をしていたが、母親の気勢におされて、それ以上いいはることもせず、だまつてしまつた。
 これは、どこにでもあつたし、いまもたぶん、どこにでもある、小さな気にも止めない話の一つである。それを、わざわざ、ここに持ち出したのは、この時、ほんとうに美しいものを知つていたのは、母親か子供か、どちらかということを、いいたかつたからである。
 この小さな女の子は、何とかちやんのバッグが、余り布の利用であることも、手作りであることも知らなかつたに違いない。自分のバッグ一つの金で、何とかちやんのバッグが、何十何百出来るかという計算も、出来なかつたに違いない。この子は、それだけに、ものの美しさをまじり気なく、邪念なく見て、紅いラシャのバッグを、美しとしたのである。
 もののほんとうの美しさを知つていたのは、この場合、小さな女の子であつたろうか、それとも、物を見れば、すばやく胸のうちで金高に換算するのでなければ、その値打を考えられない、母親の方であつたろうか。
 この母親を、あざけり笑う気持は、毛頭ないつもりである。ボクの心のなかにも、このような、ものの見方が、時として動かないとはいえないからである。考えてみれば、ボクもまた、こんなふうにして育つてきたのではないだろうか、なにか新しいものを買いあたえられるとき、これは美しいものだから大切にしなさい、といわれるかわりに、これは高いものだからこわしてはだめよ、と教えられ、同じこわしたり失くしたりした場合でも、それが安いものであれば、そんなものは、また買つてあげると、叱られないですむのに、高いものであつた場合は、いつそ、死んでしまおうかと思うほどに、厳しく叱責されもする。美しいものをこわしたからといつて叱られるのではなかつた、高いものをこわしたからといつて、叱られたのである。言いかえるなら、高いものは、すべて、美しいものであつた。安いものは、すべて美しくないものであつた。
 こんなふうにして育てられたことは、ボクたち、同じ時代のひとの、大方の不幸であつたと思う。やがて、だんだん物ごころがつき、大人になつてゆくにしたがつて、いつの間にかボクたち自身も、ものの美しさを、お金で換算して考えるようになつてしまつているのである。
 あの手作りの紅いバッグを、見事に美しと見た、あのときの女の子も、恐らくいまは、そのときの母親ぐらいの年になつて、やはり、***屋のバッグを美しと考え、紅い手作りのバッグをケイベツする、したたかな目を持つていることだろう。
 お金を上手に使うということは、お金をケイベツすることでは、もちろんないのだろう。しかしながら、ものの値打をお金で換算して考えることでは、なおさらなさそうである。
 いうまでもなく、五十円の値打しかないものに、百円を払うひとは、お金づかいの下手なひとである。そんなことは誰でも知つているが、問題は、そのものが、五十円の値打しかないということを、どうして見わけるかということである。正札に五十円とあれば、五十円の値打しかないと考えやすいが、正札は、もののほんとうの値打をあらわす、ほんとうの数字ではないのだから困る。正札からいえば、***屋のバッグは、手作りの紅いラシャのバッグにくらべて、はるかに高い筈である。正札だけにたよれば、だから、***屋のバッグは、手作りのバッグの何百倍の値打がある計算になつてしまう。
 お金を上手に使うことの第一歩は、正札と、そのもののほんとうの値打との違いを、はつきりしることではないだろか。


出典:『逆立ちの世の中』(花森安治、河出書房、1954年)


“ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペンで書く買ひに文具店に行く”

大好きな短歌です。敬愛する歌人・奥村晃作さんの1988年の作品。短歌はたった31の文字数で世界を構築せねばならない効率重視の詩形なのですが、そんな一般的な約束、圧力をものともせず、「ボールペン」と「ミツビシ」を二度ずつ使い、たたみかけてきます。自分の価値観を信じる一個人としてのブレない在り方が、この歌の魅力でしょう。これが(ブレブレの)ぼくには眩しいのです。

ほかにもパイロット、ぺんてる、ゼブラ等々、似通った選択肢があるなかで、《ミツビシがよく》と来た。問答無用感がよい。たかがボールペンというなかれ。「文具店に行く」という表現は、もうまるで人生の孤独な旅路のようです。

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提供:暮しの手帖社


“次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く”

奥村さんは言い切る。気づく力のある人。自らの美学、大切なものがわかっている眼のよい人。日々詠み続けた「ただごと歌」の数、現在約一万首だそうです。

さて、今回紹介されている花森さんの「紅いバッグの話」。初出は1952年『暮しの手帖』第15号。「お金の上手な使い方」特集のなかで編集長自らがしたためたこの文章は、いま読んでもまったく古さを感じさせない、読みやすくておおいに共感できる、お手本のような随筆です。

彼もまたきっぱりと言い切る人。

「ボクたち自身も、ものの美しさを、お金で換算して考えるようになってしまつている」「お金を上手に使うことの第一歩は、正札と、そのもののほんとうの値打との違いを、はつきり知ること」

敗戦から7年で既に戦後資本主義が陥る穴、ぼくらの混乱、煮詰まりを見抜いていたかのようですね。お金だけがものの価値を決める尺度になってしまう怖さ、歯がゆさ。やがてあなたの労働価値も、あなた自身も数値化されてしまう……!

資本主義における最高の発明といわれる「株式」というものが典型例ですが、各銘柄の値打ちはあなたの好みで決めるものではない。大勢の投票によって決まるというジレンマ。みんなが「よい」と認めたものに値が高くつく。そこに個性はない、というか不要です。大事なのは全体の見解。多数決、その予想。ぼくにはいまの社会の同調圧力、不寛容の根源のような気さえしてきます。ワイドショーやお笑い番組を見てみたまえ。どこも申し合わせたように同じことを同じアプローチでやっているではありませんか。

今回、引用された花森さんのコラムは冒頭の一部分で、まだまだこのあと、ものの値打ちを巡るエピソード(+ちょっぴりお説教)が続きます。この『暮しの手帖』初代編集長は、企画を立て取材をし、キャッチを考え、絵を描きレイアウトし、さらにこんなにたっぷりの原稿を書いて、どれだけエネルギッシュな天才なんだ! と八代目編集長にして凡庸なぼくはおおいに恐れおののくわけですが、それはまた別の話──。

花森さんが『暮しの手帖』に遺した特徴的なルールには、たとえば料理レシピや工作・手芸の手順はすべて自分の手で検証する、というものがあったりします。もう一つ、広告を入れない雑誌ということでも有名です。編集が広告に左右され、結果よけいななどが生じないように。スポンサーはあくまでも読者。そこに価値のブレを起こさぬために(なんてことを『広告』という雑誌に書くのはちょっとおかしいですけれどね)。

1948年創刊。「一人一人が自分の暮らしを大切にしていたら戦争はなかった」「二度と悲惨な戦争を繰り返さないために」、花森安治と“とと姉ちゃん”大橋が作った雑誌です。創刊からしばらくは『美しい暮しの手帖』と銘打たれていました。本稿にも頻出しますが、花森さんは「美しい」という表現を至上の表現のごとく使う。たとえばこんなふう。

「美しいものは、いつの世でもお金やヒマとは関係がない。みがかれた感覚と、まいにちの暮しへの、しっかりした眼と、そして絶えず努力する手だけが、一番うつくしいものを、いつも作り上げる」(創刊号)

暮しへのしっかりした眼と絶えず努力する手。これが、本年5月で通巻400号を迎えた『暮しの手帖』にいまだ続く根っこの部分です。日々自分の眼を養うこと、努力し続けること。美はそこにしか宿らない。

たとえば、器。料理家の某先生に教わったのですが、美しさを知るためには、とにかく見続け、自分の手で実際に使い続けることだそうです。陶器店、古道具店、展覧会でも陶芸工房でも足しげく通い、人に話を聞くこと。勉強すること。それを十年も二十年も、あるいはもっとやって、ようやく視えてくる。ちがう景色が立ち上がってくるそうです。自分の価値の尺度、座標軸、ブレない個性の確立は、そのあと。長い道のりでしょう。でも、だから人生は面白い。

……ああ、いや、なんちゃって、花森さんの魂が急に降りてきたのか、エラそうに言うておりますが、最初に白状しておりますように実はぼくこそ価値観「ブレブレ」の達人。妖怪ブレブレなのであります。一流品に弱く、高い安いに左右されて生きてきたなあ。つい先日も小6の娘がロイヤルコペンのお皿にひびを入れたとき即座に叫んじゃいましたもんねえ、「わーこれ高いんだぞー」。

でも花森御大だって、本稿でこう書いています。「私の心のなかにも、このような、ものの見方が、時として動かないとはいえない」「私もまた、こんなふうにして育つてきた」と。ちょっと安心です。

そして、別にこんなことも。「まいにちの暮しに役だっている色々の道具の美しさは、決して、それの飾りや何かにあるのではなくて、その道具が、しっかり役に立っている、というそのことが、とりもなおさず美しいともいえるでしょう」(『少女の友』1946年)。

そういえば、奥村晃作さんの最新の歌集(『八十一の春』2019年)に、こんな一首を見つけましたよ。

“ミツビシのボールペンで書き六十年 JETSTREAMを今は使ってる”


文:澤田 康彦

花森 安治 (はなもり やすじ)
『暮しの手帖』初代編集長。1911年、神戸市生まれ。旧制松江高校、東京帝国大学に学ぶ。1948年、『暮しの手帖』を創刊。自ら取材、撮影、執筆、イラストまで手がけ、亡くなる前日まで30年にわたり編集長を務めた。生活者目線の編集方針は、いまも『暮しの手帖』に受け継がれている。
澤田 康彦 (さわだ やすひこ)
『暮しの手帖』編集長。1957年、滋賀県生まれ。上智大学外国語学部卒。マガジンハウスに編集者として30年の勤務後、フリー編集者(兼主夫)を経て、2016年より暮しの手帖社へ。最新エッセイは『ばら色の京都 あま色の東京——『暮しの手帖』新編集長、大いにあわてる』(PHP研究所)。

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この記事は2019年7月24日に発売された雑誌『広告』リニューアル創刊号から転載しています。

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【リニューアル創刊記念イベント レポート】

この記事を寄稿していただいた澤田康彦さんとトークイベントを行いました。

『暮しの手帖』編集長 澤田康彦 × 『広告』編集長 小野直紀
〜 生活をとりまく「価値あるもの」へのまなざし

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