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138 ふつうの暮らしと、確かにそこにある私の違和感

秋の夜長。裏の庭でリリ、リリリと鳴いている虫たちの声は心地よく、裁縫をする手が進む。裁縫と言ってもくたびれたパジャマのウエストを繕う程度のことではあるのだけれど、そうした細々とした家事は、考え事をしながらやるのにちょうどいい。


取るに足りないふつうの暮らしと、SNS

今夜の頭のなかはもっぱら「文化的な生活」というこの雑誌からのお題について。その依頼主は、私がこうしたこと……というのはつまり、服を修繕したり、食器を継いだり、美しい道具を愛でたりしていることをSNSなんかに公開している断片を見ていたらしく、そうした「ふつうの暮らし」について書いて欲しいのだと言う。べつに、それはあまりにも取るに足りないことだから、わざわざ誌面に載せる必要もないでしょう、としばらく躊躇した。

特筆すべきことはあるだろうか……と悩んでみても、長年愛用できるであろう美しい道具を使いたいとか、できる限りこの土地のものを選びたいだとか、そういうありふれた類の話であって、それはもうあちこちのライフスタイル誌や暮らし系エッセイなんかで言われ尽くしている内容ばかり。新しく提言するようなことはとくにない。下手な裁縫、そこそこの料理、自己満足するばかりの居住空間……どれを切り取っても、特別に秀でた点はない。

いや、でも「そうやって、自分のやっていることは大したことがない、と遠慮するのは、よくないんじゃない?」という声が、頭の別の部分から飛び出てくる。先日、ジャポニズムに関連する本を読み漁っていたときに、西洋に置けるジャポニズムは、ある側面では「女性の間で流行った」そして「軽佻な流行」である、というような記述が度々登場してきて、私はいち女として小さく憤慨していたではないか。

そこにある営みに、あっちは高尚、こちらは軽佻、と線を引くのはあまり好ましいもんじゃない。もっとも過去を見れば、そこには確かにあったのに、立場が低い者のことだから、もしくは語り手の多くが男性であるから……という理由で語られてこなかった「軽佻な」文化が無数にあるようで、それは女である自分にとって、なんだか悲しいことでもあるのだよな。

それを思えば、いまは随分とよい時代なのかもしれない。私たちの手の内にはインターネットがあり、SNSがある。自分らのことは、なんぼでも自分で語ることができる。それに加えて今回は、こうやって紙に印刷までしてもらえるんだから、サービス終了とともに消えてしまうかも、だなんて憂慮する必要もない。この文章は残る。その内容の価値が如何ほどか……という判断は先の人たちに委ねるとして、ひとまずはここにあるふつうの暮らしについて、そしてそのなかに密かに、けれども確かにある私の違和感について、しばらく考えてみたい。

言うまでもなくここ数年、これまでそれぞれの家のなかに秘められていた暮らしの断片はSNS、とくにインスタグラムに溢れ出して、ネット空間には「暮らし系」という巨大な惑星ができ上がっている(で、私もその一味である)。もちろん、そうやって表に出ている暮らしの断片は、正しい記録という訳でもない。大なり小なり見栄や虚構が挟まっていて、そうした惑星のあり方が冷笑されることも多々ある。けれども、そうした否定的な空気が一部であったとしても、四季折々の暮らしの断片は今日も各々の家庭から公開され続けていく。

しかしなんでまた、暮らしの内側……というもっとも私的な空間を、これほどまでに多くの人が公に晒すことになったのか。承認欲求、と言ってしまえばそれまでではあるけれど、それほど単純に片づけたくもないのだよな。もっとも、私のごく個人的な感覚を言えば、暮らしにまつわることは、ほかの趣味──たとえばK-POPのミュージックビデオを呆れるほどに繰り返し再生したりすること──などにくらべて、いくらか公言しやすいところがあるのだ。

だって、スマホの向こうでこちらを見ている相手に対して、「遊んでるんじゃなくて、家事。家事なんです!」という大義がギリギリ成立しないだろうか。生活というのは好きであろうとなかろうと、それをやらなきゃ毎日が進まないのだし、どうしてもやらなきゃならないことを、どうせなら機嫌よくやっていることは、なんにも後ろめたいことではない。そういう点では「ただ、好きだから」というシンプルな理由で没頭する数多の趣味とは少々性格が異なるし、さらには家族のために、といった大義もついてくる。

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